第一章

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第一章

"(なんじ)ら人を裁くなかれ。(なんじ)らが裁かれんがためなり" 二千年も前の救世主の言葉が、自他ともに認める無神論者(むしんろんじゃ)尾萩(おはぎ)の脳裏をフッと天啓(てんけい)のように揺らめいた。 大衆向け週刊誌の記者という因果(いんが)な稼業に身をやつして10年あまり。それは、彼がつかんだ大スクープの見出しが新刊の表紙をデカデカと飾った日のことだった。 スクープの主役は、国内有数の医療設備と技術を誇る『聖ラングドシャ病院』の若き外科部長、ドクター餡野(あんの)だ。 ひと月前、どんな難しい外科手術もこなす名医にとって、赤子の手をひねるより簡単なはずの単純な腹膜炎(ふくまくえん)の手術の直後、男性患者の容体(ようだい)が急変し死亡してしまった。 匿名性(とくめいせい)の保護のため告発者の身元は追及しなかったから確証はないが、尾萩(おはぎ)記者が在籍(ざいせき)する編集部に告発文を送ったのは、ドクター餡野(あんの)同僚(どうりょう)の外科医らしかった。 実際、告発者とおぼしき中年外科医は、医療知識にうとい尾萩(おはぎ)記者の非公式のアドバイザーとして、ドクター餡野(あんの)が「不可抗力な手術後の合併症」をよそおい医療ミスどころか故意(こい)に患者を死に至らしめたと疑うに十分な状況証拠を次々に提示(ていじ)してくれた。 10才年下の同僚にして世界的に高名な名医餡野(あんの)に対する中年外科医の卑屈な笑顔を見ては、尾萩(おはぎ)記者には、それが正義感にばかり由来するとは決して思えなかったが。 かくして、「限りなく黒に近い灰色」にドクター餡野(あんの)を染めて糾弾(きゅうだん)するに足りるだけの素材は煮詰まった。 いかんせん、若き天才外科医を唐突(とうとつ)ともいえる背徳行為(はいとくこうい)に走らせた動機だけは分からずじまいだった。 平凡で生真面目なサラリーマンだったらしい26才の男性患者と、かつて華族だった名家の出身の外科医の人生には、まるで接点が見当たらない。 だが、 「ほら、天才となんとかは紙一重とか昔から言うしな。"理由なき犯行(はんこう)"ってやつよ」 と、古いアメリカ映画のタイトルをもじって磊落(らいらく)に笑う編集長のゴーサインを受け、関係当局などへの根まわしもそこそこに、ややフライング気味に週刊誌は発売された。 数々の人命を救ってきた天才外科医への衝撃的な断罪劇は、日本中を異様なカタルシスに酔いしれさせたものだ。 記事への反響を"エゴサーチ"し、SNSのトレンドを埋め尽くす称賛(しょうさん)をパソコンのディスプレイにスクロールしながら、尾萩(おはぎ)記者は、じつに感無量(かんむりょう)だった。 やがて、新着Eメールの受信を知らせるポップアップが視界のスミに映った。 開封すると、1年ほど前に世間を震撼(しんかん)させた連続婦女暴行殺人事件に関する情報が送られてきていた。 7人にものぼる犠牲者(ぎせいしゃ)を出しながら、容疑者が見つからないままだったが、警察の懸命な捜査が実り、ついに有力な目撃情報を探り当てたとのことで。 貼付ファイルを開けば、容疑者のモンタージュ写真がディスプレイに映し出される。 「あ……っ?」 思わず声が漏れたのは、それが、ドクター餡野(あんの)の手術によって故意に死に至らしめられた男性患者の顔に酷似(こくじ)していたからだった。
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