第1話

1/1
5人が本棚に入れています
本棚に追加
/9ページ

第1話

 殴られた左頬がまだ痛む。 縛り付けられた縄が食い込み、全身のしびれと寒さに目を覚ました。 「あ~、くそっ!」  血生臭い唾を吐き捨てる。 空には嫌になるほど大きな月がかかっていた。 何よりも気に入らないのは、毛羽だった杉の木に縛り付けられているせいで、肌に刺さる棘までもがチクチクと痛み落ち着きが悪い。 気付けにとぶっかけられた井戸の水で、着物はすっかり濡れてしまっている。  旦那さまに呼ばれ、部屋に入った。 奥さまと番頭気取りの八代、又吉にお富の奴まで含め、奉公人皆が勢揃いしていた。 ただならぬ雰囲気に、あたしはようやく己の身に降りかかった災悪の大きさに気づく。 「決して、決してそのようなことはございませぬ!」 「では本当に、一切の非はないと己に認めるか」  そう問われて、言葉に詰まる。 己に対する非?  そんなもの、持たぬ人がこの世にあるだろうか。  恐る恐る顔を上げた。 旦那さまは怒りに満ちた目であたしを見下ろし、八代はいつものように顔色一つ変えやしない。 又吉はやたらとニヤついていた。 奥さまはすぐに騒ぎ始める。 「ほらご覧なさい! なにも言わぬのが、何よりの証拠ではありませんか!」 「そうでごぜぇますとも、全くその通りにごぜぇます!」  お富は当然のようにそれに同調した。 奥さまのわめき散らす怒鳴り声にただただひれ伏し、あたしは「申し訳ございません!」をいつものように繰り返す。 「ほら、このように多津も認めております」  その一言に、ハッとした。 「ち、違います!」 「何を言う! たった今、謝ったばかりではないか!」 「このお富が保証いたしやす。奥さま、この女は……」 「分かった、もうよい!」  旦那さまは扇子をパチリと鳴らした。 「多津を一晩、裏山に縛り付けておけ!」  だからって何も、あんなに酷く殴りつけることなんかありゃしないじゃないか。 大体何が悪いってんだ。 どれもこれも全部、あんたらのせいじゃないか。 あたしの何が悪い?  人を悪人みたいに扱いやがって。  寒さに身が震えた。 明るい満月の夜だ。 ここはどこなんだろう。 随分と山の奥まで連れてこられたもんだ。 カサリと小さな音がして、腫れ上がったまぶたを持ち上げる。 見れば小さな栗鼠がこちらを見上げていた。 一時立ち止まっただけで、あっという間に走り去ってしまう。 「おい、栗鼠なら縄ぐらい解いていけ」  きつく杉の木に縛り付けられているせいで、指の先しか動かせない。 首はかろうじて回るが、それには激しい痛みが伴う。  あの仕置きの場に若旦那さまとお菊さまのいなかったことが、あたしにとっての全てだったのだ。 どれだけ尽くしても、かばってくれる人などいやしない。 ふいに可笑しくなって、面白くもないのに笑う。  何が出替わり日を迎えないと暇はだせぬだ。 騒ぎ立てるやかましい奥さまを、さっさと黙らせたかっただけじゃないか。 結局は台所奉公の出替奉公人より、長年季で働く男手の八代と又吉を選んだってことだ。 これから稲刈りの始まる忙しい時期に、皆のご機嫌取りの道具にされたんだ。 いつだって落ち着かない居心地の悪いあの家が、こんなことで静かになんてなるもんか。  あたしに色目を使っていた又吉が、一番に縄をかけた。 元々信用もなにもなかったが、ここまで酷い男だとは思わなかった。 あんな男に惚れているお富は、どうかしている。  傷口に掛けられている縄のせいで、ズキズキと腕が痛む。 流れた血で着物は赤く染まっていた。 遠くで梟の鳴く声が聞こえて、深く息を吐き出す。 体が火照り始めていた。 熱が出てきたようだ。 頭まで痛み始める。  若旦那さまのことを、一度でもそんな目で見たことはなかったかと言われると、否定することは難しい。 だけど所詮身分の違う立場だ。 自分のような小間使いの下っ端奉公など、相手にされても、してもらうのも、いいことなんてありゃしない。 お手つきの奉公人になんて、なるもんじゃないと知っている。 そんなこと、誰に言われなくても分かってる。 だから嫌だったんだ。 こんなことになるなら、あの時にちゃんと逃げ出せばよかった。  初めて男に抱かれた。 この機会を逃せば、もう一生こんなことはないと思った。 又吉から浴びせられる色目が、とにかく気持ちわるかった。 いずれ又吉なんかにそうされるくらいなら、若旦那と床入りした方がまだマシだと思った。 ただそれだけのことだった。  あの日の晩に、なぜ自分が泣いていたのか。 あの時になぜあたしはついていったのか。 その全てが今ここに答えとしてある。 あたしはどうしても乗り越えられない何かを、風のように乗り越えてみたかっただけなのかもしれない。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!