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エピローグ
「お父さん? どうしたの?」
僕がようやく自分が涙を流しているのに気付いたのは、咲の驚いた声が聞こえたからであった。
「あ……ああ、この味……」
あれから。
僕たち家族は最後の引っ越しをした。姫のいないあの場所で、姫との思い出を抱えて過ごすのが辛かった僕は、少しだけほっとしたのを覚えている。僕は高校を転校し、大学に進学、その後就職して妻と出会った。あのときの折り鶴は今でも引き出しに大事にしまっている。
「高校生のときに亡くなった友達のこと思い出したんだ。お父さんと同じ『まさる』って名前でね。お菓子作りの上手な人だったんだけど、その人が作ってたクッキーの味に、よく似てる」
そっと涙を拭いて、僕は笑った。
「男らしさの塊みたいな人だったなあ。お父さん、その人のクッキーが大好きだったんだ」
どの店にも売っていない特別な、この味、この香り。あのミルクの濃厚な香りの正体は生クリームだったのか。僕は辺りに漂う『初恋の香り』を思いっきり吸って、胸いっぱいに溜め込んで。それからゆっくりと吐き出した。
明るくて、人気者で。青春の真っただ中でいつもきらきらと輝いていた姫。友達と過ごす楽しさ、恋する喜びと切なさを僕に気づかせてくれた姫。そしてもう一つ、姫が僕に教えてくれたこと。それは「今」を大切に生きる、ということ。
あのとき触れ合った指先。姫の気持ちはもう誰にも分からない。でも。姫と過ごした時間は、今となってはかけがえのない大切な思い出だ。
僕はおそらく、性別に関係なく人を愛せるタイプの人間なのだと思う。といっても、好意を抱いた男性は姫だけだったし、女性だって妻しか知らないのだけど。
同僚で同期だった妻との出会いは、入社式だった。明るくて、料理が上手で、何より笑顔が素敵な女性。一緒に仕事をこなすうちに僕は彼女に惹かれた。自分の気持ちに気付いたとき、僕はすぐに思いを伝えた。正直に、真っ直ぐに、絶対に後悔しないように。例えそれがどんな結果になろうとも、僕は怖くなかった。僕たちは交際を始め、家族になり、今もこうして暮らしている。
目の前には温かな日常が広がっている。オーブンを覗き込んで焼き加減を見ている妻。味見と称して焼きたてのクッキーを次々とつまみ食いする健人、そして弟を叱る咲。
「さ、ラッピングしなくっちゃね」
焼きあがったクッキーを前に、咲が腕まくり。
「お母さん手伝おうか?」
「ありがと、じゃあクッキーの方お願い」
「わかったわ」
彼氏へ贈るケーキを自らラッピングしながら咲が笑っている。妻がクッキーを小分けにする。叱られた健人はふてくされてまたソファーに寝転がった。
ごくごく普通の、でもこの上なく幸せな四人家族。僕が大切にしたいもの、それは、目の前にあるこの幸せ。妻の笑顔と子どもたちの未来を守るために、僕は今を全力で生きる。
「咲に彼氏かあ、お父さん妬いちゃうなあ……」
「ふふ」
僕がおどけてみせると、咲ははにかむように笑った。本当にいい表情をしている。今はただ、彼女の恋がうまくいくことを願うばかりだ。
了
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