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プロローグ
「ただいま」
「お父さん、お帰りなさい」
玄関のドアを開けると、家の中は甘い香りでいっぱいだった。娘の咲が、妻と一緒にきゃあきゃあ笑い合いながらお菓子を作っている。ソファーでは高校生の息子、健人がゲームに夢中だ。
僕は鞄から空の弁当箱を取り出した。寝転がっていた健人が体を起こし、遊ぶ手を止めてじっとこちらを見ている。
「それチョコ?」
その視線はどうやら弁当箱の隣にある小さな包みに注がれている。目ざとい。甘いものが好きな僕によく似て、健人もお菓子が大好きなのだ。とくにチョコレートには目がない。
「お父さん、チョコもらったの? 食べてもいい?」
「ああ、いいよ」
僕は笑って今日会社で女性社員たちが配っていたそのチョコを健人に手渡した。
明日はバレンタインなのだ。
最近、咲には彼氏ができたらしい。先日は家にも遊びに連れてきたとか。僕は仕事で留守にしていたが、妻によると、咲と同じ調理専門学校に通うその彼は、人懐っこい優しそうな好青年だったそうだ。
毎年友達同士で交換するためにお菓子を手作りしている咲だが、今年は特に気合が入っているようだ。すでに美味しそうな小振りのチョコレートケーキが焼き上がっている。
チョコのラッピングを解きながら健人がぼやいた。
「誰か俺にもチョコくれないかなあ」
サッカーに打ち込む高校一年生。まだまだ幼いところもあるけれど、そろそろ恋もしたい年頃なのだろう。
「大丈夫。誰にももらえなかったら私がクッキーあげるわよ」
「えー、姉ちゃんからぁ?」
「今日のクッキーは生クリーム入りなの。いつもよりリッチな配合なんだから」
「そんなこと言っちゃってさ、彼氏用のケーキで余った生クリームを処理したかっただけだろ?」
「あら、よくわかってるじゃない」
健人はさっそくチョコを口に入れ、「うっまあ」と一声上げると、またソファーにごろんと寝転んだ。咲はクッキー生地を天板に次々と絞り出しながら、楽しそうに笑っている。器用なものだ。
着替えを済ませて戻ってくると、ちょうどオーブンが鳴って、妻が焼きあがったクッキー第一弾を取り出したところだった。途端にまた、濃厚なミルクのような芳醇な香りがリビングを満たす。
「うわあ、うまそ」
「だめよ、健人。まだ食べないで」
それにしても。
何だろう。胸をくすぐるこの甘い香りは。どこか切なくて、それでいて温かい。
それはまさに、『初恋の香り』だった。まだ熱い天板の上に並ぶ渦巻型の絞り出しクッキーを見ながら、僕は思わず大きく息を吸った。……と、単調で慌ただしい日々の中で色褪せていたほの甘い幼い感情が鮮やかに蘇ってきて。
――姫……。
心の中でそっと彼の名を呼ぶ。まぎれもない、僕の初恋。未練があるわけでは決してない。だけど。思い出の中でいつまでも輝き続けている大好きだった人。僕に生きることの本当の意味を気付かせてくれた、大切な人。中学生の頃に出会ったその年上の美少年は、僕と同じ『まさる』という名前だった。
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