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「うまい」
「それは良かった」
「あ――」
あんたは食べないのか、と聞こうとして、アシエルは口をつぐんだ。散々てめえだのこの野郎だのと罵った相手に、今さら距離を置いて取り繕ったところで不自然なだけに思えたのだ。
「……お前は食わねえの? ディー。うまいのに」
「いい。今は深夜だ。食欲もない」
淡々と呟く声には、隠しきれない疲労が滲んでいた。ちろりとアシエルはディズジェーロの顔を伺う。暗がりのせいではっきりとは分からないが、相変わらず隈はひどいし、頬に血の気はない。気分が荒れているのだと、アシエルをディズジェーロの前へ連れてきた伯爵は口にしていたはずだ。ディズジェーロの状態がひどいことはいつものことではあるが、食事や睡眠にまで影響が出るのは相当だ。
調律した方がいいかもしれない、と思う一方で、散々な目に合わされた上で何もなかったかのようにそれを自分から言い出すのもどうなのだと思わなくもない。それこそ一途に主人を慕う犬のようではないか。
「なあ、俺がここに来てからどれくらい時間が経ってる?」
「知る必要はない。食事を済ませたら寝ろ。まだ万全ではないのだろう」
「誰のせいだよ! ……飯もらって檻の中でずっと寝てろって? 俺はお前のペットじゃないんだよ。出してくれ、ディー。あの結界、開けてくれよ」
「開ければ死にに行くと分かっていて開けるほど愚かではない」
「人を自殺志願者みたいに言うなよ」
「自殺志願者だろうが」
ぎろりと視線を向けられる。責める色の強いそれに怯みつつ、アシエルはふかふかのパンを口に押し込んだ。口の中の物を咀嚼した後で、言い訳をするようにアシエルは言う。
「別に俺だって死にに行くわけじゃない。ただ、少し危険なだけだ。ディーだって危険な任務を押し付けられることくらいあるだろう? 兵士なんだし、元々覚悟してることじゃないか」
「そうか。考え方の相違だな。残念だが私は覚悟していない」
「え?」
意外な言葉に思わず顔を上げれば、苛立ちをありありと込めた瞳がアシエルを見据えていた。
「目の前にいるのがお前だと分かった瞬間、心臓が凍った。一日二日で他国の、それも中枢への潜入の手筈が整うものか。根回しするなら最低でもひと月はかかるはずだ。お前は前々から知っていたのだろう。知っていて何も言わなかった。違うか」
「それは……」
アシエルは口ごもる。ディズジェーロの言葉は事実だった。任務の内容までは話せなくとも、帰ってこられないかもしれないのだと話す機会は確かにあった。ユリア女王がアシエルに休暇を与えたのも、きっと親しい者たちと過ごす時間を取らせるためだった。
誰にも何も言わないまま、ここに来ることを選んだのはアシエルだ。
「また来いと言ったくせに。何も知らないうちに勝手に死なれて、会いに行って見つけるのは、お前の名前だけが掲げられた空っぽの墓か、アシエル。ふざけるな」
「……何も言わなかったのは、悪かったよ。任務が任務だから、言えなかった」
「任務が何であろうとお前は言わなかっただろう」
その通りであるだけに、目を逸らすことしかできない。
「普段はそうそう死ぬような任務はないし……いや、あるけど……ドラゴンの討伐とか……でも、戦闘任務なら生存率は高いから……」
「くだらない討伐でしくじるような間抜けは許さないと言ったはずだ。だがこれは違う。お前に回されるべき任務ではない、アシエル」
「それはユリアさまが決めることだ。……ディー。お前これ、軟禁って言うんだぜ。知ってるか?」
瑞々しい果実を口に放り込みながら、アシエルはじとりとディズジェーロを睨みつける。悪びれる気配もなく、ディズジェーロは軽く頷いた。
「一時的なものだ。お前がどこまで理解しているか知らないが、今は状況が良くない。馬鹿が馬鹿な自殺行為をしなくても良くなれば解放する」
「イーリスの軍人を匿ってるってバレたらまずいんじゃねえの」
「お前ひとり囲う程度、造作もない」
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