勇者と呼ばれた凡人

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勇者と呼ばれた凡人

 冬も間近の曇天の日、息をひそめる軍人たちの視線は、一様に荒野の中心に向けられていた。 「――魔力の充填を完了。いつでもどうぞ、大佐?」  彼らの視線の先には、空中に描かれた巨大な魔法陣と、その傍らに緊張感なく立ち、飄々と声を発する若い青年の姿があった。  癖の強い金髪はざんばらに風に揺れ、吊り目がちの翠眼は猫のように細められている。新兵と比べればその態度はあまりにもふてぶてしいが、熟練兵と呼ぶにはいささか覇気と意欲に欠ける。目立つ容姿とちぐはぐな態度を抱え、荒野の中心に立つ若き兵士の名はアシエル。精鋭だけが集められた特殊部隊の中で、唯ひとり家名を持たぬ、市井の出の軍人であった。 『カウント三で対象研究施設を破壊しろ』  無線を通じて、司令官が淡々と命令を告げる。 ――いよいよだ。  誰も声には出さない。しかし、司令官の声を皮切りに、にわかに部隊の緊張が高まっていることは、言葉にせずとも明らかであった。  その日、彼ら特殊部隊に与えられた任務は、とある研究施設の破壊であった。実験生物が暴れて手が付けられないと報告があったため――というのはあくまで表向きの内容で、実際のところは、隣国と内通していた軍事施設を関係者もろとも闇に葬るという、祖国を裏から支えるための後ろ暗い仕事である。 『総員、広域魔術の余波に備えろ。魔術の着弾と同時に作戦を開始する』 「はっ!」 『本作戦の肝は殲滅速度である。作戦終了まで六十分を超えるな』  端的な指令の言葉が積み重なるにつれ、ぴりりと部隊の空気が張り詰めていく。ところが、いよいよ作戦が始まるというその時、彼らの緊張感をあざ笑うように、ごく軽い口調が荒野に響いた。 「――俺は? これを撃った後は普通にやればいいんで?」 『否。アシエル少尉は着弾確認後、部隊に先行してすみやかに現場に転移し、狂竜を討伐せよ』  聞き間違えかと思うような苛烈な指示に、あちらこちらから息を呑む音が聞こえてくる。無線越しに紡がれた命令は、その実、腕利きを千人集めた部隊でさえ不可能であろう危険なものであったからだ。特攻して死ね。そう言っているに等しかった。  兵士たちの動揺を余所に、無茶な命令を受けたはずの当人は、涼しい表情を崩さなかった。あるべき恐怖を浮かべる代わりに、二十代前半という年には見合わぬ諦観を瞳に宿したアシエルは、ただ一度ふん、と不満げに鼻を鳴らしてみせる。 「人使いの荒いことで」 『この仕事が終われば隊全体に特別休暇の許可が出る。休みたければきりきり働くんだな。『勇者』殿』 「へいへい」  物語の中でのみ耳にするような大げさな呼称を、アシエルは当然のように受け入れた。薄らと浮かべられた笑みと投げやりな返事は皮肉げで、他者を見下しているようにすら見える。  平民――それも、ただの少尉でしかない一軍人に許される態度ではない。けれど、部隊員の誰ひとりとして、アシエルの不遜な態度を咎めようとはしなかった。あるいは、必要以上に関わることを恐れたと言い換えてもいい。  本来ならば叶うはずのない所属と大層な称号のもと、不適当な態度さえ許される。それだけの成果と人間離れした力を、彼は有していたから。 「広域攻性術式を起動」  宣言とともに表情を引き締めたアシエルは、祈るように胸元に手を当てる。一点を見つめ、真摯に術式に向き合う様子には、強大な魔術を放つことへのためらいも、危険な任務への不安も感じられない。憂いだけを瞳に乗せ、ひとりの人間の身には余る魔力を易々と扱う様は、ある種の神々しささえ醸し出していた。  それこそ、おとぎ話の中の勇者とはこのような存在だと言われれば、まるごと信じてしまいそうなほど。 「カウント開始。三……二……一……」  空恐ろしいほどの魔力を流し込まれて描かれた魔法陣は、アシエルが口ずさむ数字に合わせて空気を震わせ、やがて網膜を焼くほどに眩く光を増していく。 「――ゼロ。射出」  感情を排した声が響くと同時、世界から一切の音が消えた。
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