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 駅前のバスターミナルは朝靄の中にあった。  白くぼやけた背景には、うっすらと新幹線の高架が見える。  もう少しすれば、始発の電車が轟音と共にやってくる。  それを見上げるターミナルは遊園地のメリーゴーランドのような綺麗な円形をしていた。  円形をしたバスターミナルは珍しいらしい。  最近テレビで見た知識が、城崎(きのさき) (あずさ)の頭の中にぱっと浮かんだ。  とはいえ梓にとっては珍しくもない。  なにしろ十何年ほど暮らしてきた町だ。この光景も見慣れたものだった。  それでも今日は不思議と、しっかり目に焼き付けておきたい気がする。  梓はなんとなく、中点にそびええ立つモニュメントを上から下まで眺めた。  天に手を伸ばす女の子は、なにを求めていたんだろう。  いつもなら絶対に思わないことを、つい考えこんでしまう。  結局、答えは分からないままだった。  この先、この町を離れたあと、知ることはあるのだろうか。  今日、この町を出ていく。そして知らない場所に行く。  その事実にようやく心が追いついた気がした。 「涼しいのかな」  だとしたら嬉しいけど。  梓はこれから行く地に思いを巡らせた。  この辺は七月に入ってからぐっと暑さが増した。山の方は多少涼しいのだろうか。  独り言のつぶやきは、隣にいた母が拾ってくれた。 「そこまで変わらないと思うけど。なにも、北に行くわけじゃないんだから」 「あ、そうなんだ」  じゃあ、と羽織っていたカーディガンを脱ぐ。  すうっ、と朝の風が制服の裾から入り込んできて、一気に目が覚めた。  しばらく着ないから、とカーディガンはえいや、と丸めて旅行カバンに突っ込んだ。  あんたねえ、と母の呆れた声が飛んできた。しかし、それ以上の言葉がない。  もっと丁寧に、とか、きちんと畳みなさい、とかそういうセリフは一体どこに。  思わず梓はまじまじと母の顔を見つめた。だって、叱られると思ってたのに。  予想を裏切った母は、どこか思いつめた顔をしていた。 「な、なに急に。どうしたの」  自分の知っている母はこんな表情しただろうか。  仕事第一、バリバリキャリアウーマンの母はいつも強気だった気がする。 「梓、急にごめんね」  続いて母の口から出た言葉に、梓は納得した心地になった。  よかった。少しは気にしてもらえていたらしい。 「それはもういいってば。二人とも仕事が好きなのは分かってるし、お父さんもずっと単身赴任で世界中飛び回ってるし、今さらじゃない?」  梓の両親は外資系の企業で働いている。  仕事は忙しく、幼い頃から家に帰らない日もままあった。  だから、突然明かされた長期の海外出張にも梓はあまり動じなかった。  どこの国なのかな、とか引っ越しの準備しなきゃ、とか冷静に考える余裕すらあった。ただ一つ、意外だったことは――。 「まあ、私は一緒に連れて行かないっていうのはさすがに驚いたけど」  両親は梓を遠縁の親戚の家に預けることに決めたのだった。  一緒に海外に行くことを覚悟していた身としては拍子抜けだ。  それでも梓に異論はなかった。どこかに行くことに変わりはない。  あっという間に準備は進んだ。 「提案したのは私だけど……やけにあっさり同意するから、なんか心配になってね」  母の表情は晴れない。その原因には心当たりがあった。  でも、放っておいてほしい。苛立ちと罪悪感が混じり合う。  それでも別れの感傷が先に立ち、梓は口元をきゅっと上げて笑みを浮かべた。 「それは大丈夫。ここでも、どこでもおなじだから」  どこに行ったって、自分が変わるわけじゃない。  浮かべた笑みは嘘っぽいのだろう。表情筋が痛かった。 「梓……」  母はまだなにか言いたげな様子だった。しかしそれに被さるように、チャイムの音が鳴り響く。 『まもなく空港直行便が……』  ざっと周囲の人が動いた。乗り場に整然と列が形成されていく。  旅行にいくのだろうか。無邪気にはしゃぐ子供の姿が、やけにまぶしい。あんなに無邪気でいられたのはいつまでだったか。  母は、それじゃあ、と言い梓に背を向けた。が、すぐに振り返ると手を伸ばし、梓の頭をそっと撫でた。 「お母さん……?」 「梓。あそこは特別な場所だから……きっと、あなたにとっていい経験になるわ」 「え?」  尋ねるより前に、母の姿は銀色のバスへと吸い込まれていった。  バスは、まもなく靄の中へと溶けて見えなくなった。  目に焼き付いたテールランプの赤色を、瞬きを繰り返して追い払う。喧騒にあふれていたターミナルは、今は閑散としていた。  動いた拍子に出た衣擦れの音がやけに響いて聞こえる。普段は鬱陶しいはずの人混みが無性に懐かしい。  梓はぐるりと辺りを見回した。路線バスが一台、離れた場所に停まっていた。上部の電光掲示板には『水上(みなかみ)』という文字がオレンジ色に光っていた。 「……よし」  ぎゅ、とカバンの持ち手を握りなおし、梓はバスを目指して歩き始めた。
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