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「いったい、教師の仕事ってなんなの」
独身女が壁に向かって会話するようになったらもう終わりだ、と赤間加奈子は思う。
東京都内の中学校の教師となって十数年がたつ。今までよく辞めなかったと自分で自分を褒めてあげたい。人間には使用耐用年数はないのだろうか?あったら自分はとっくに壊れていただろう。
赤間は疲労感漂わせて、よろよろと職員室の自分のデスクに向かって歩いた。
長い廊下だと感じた。実際はそれ程ではなかったが。歩きながらも数分前の出来事が走馬灯のように駆け巡っていた。
「赤間先生じゃ話になりません。校長を呼んでください」
「誠意のある対応をしてほしいだけです」
「うちの子が何をしたのですか?うちの子は何も悪くありません!」
「なんなら、先生が責任とってくれるのですか」
「誠意をみせてもらわないと。そうね…土下座してください」
いじめを受けた生徒への対応が悪いことに激怒した生徒の保護者が、赤間ら教員に土下座を迫ってきた。やるのやらないの押し問答のすえに先に、ようやく保護者の執拗な叱責から解放されたのだった。
疲れた…、と赤間は心の中呟いて息を整えた。忘れようとしても忘れることなどできなかった。
何を言っても伝わらない、スットコドッコイの親だった。
加害者は被害者意識が強いものだ。いじめは先に被害を訴えたがほう被害者になるらしい。たとえ、先にやったとしても。納得できないが、これが真実だ。
これ以上どうしろというのだ。
これから同僚や上司からお手盛りの批判があることを考えると胸中の重苦しさを感じた。職員室に入ることが躊躇われたが、意を決してドアを勢いよく開けた。
職員室の中ではどこか疲弊した空気が漂っていた。赤間が中に入ると、何でも知りたがりの教員たちは一斉に自分の仕事に邁進し始める素振りをした。
いつものことじゃないか。
残っていた知りたがりの教員たちが屏風のように顔を並べて、こちらの様子を伺っているのがわかった。
どうせ哀れみの視線を投げているのであろう。
情報共有というのか情報漏洩というのか、こういう時の伝達はやたらと早い。いやはや、あっぱれだ。もうすでに知っているくせに知らぬふりで尋ねてくる。
「赤間先生、大変でしたね。で、解決しそう?」
「ええ。まあ」
「赤間先生なら上手くやれますからね」
「…」
曖昧に相槌をうち自分のデスクに向かった。どいつもこいつも徹底した日和見主義というべきなのだろうか、と赤間は思った。
職員室は校舎の二階にある。三教室分くらいをぶち抜いただだっ広い場所だ。向き合わせた個人のデスクが数列も並べ立てられ壮観な眺めだが、そこに感じられるのは人間社会の醜い感情とストレスだけだ。職員室の窓のブラインドは開放されており、その先には桃色薄紫の空が広がっていた。
はあー、今日も一日が終わる。
なんだってこうも毎日毎日トラブルが起こるのだろう。私は毎日真面目に生きている。きっちり働いて社会に貢献していると思う。それなのに…。
私は何も悪くない!
赤間は職員室でデスクに腰を下ろして、視線を漂わせていた。ちらりと時計に目をやると、すでに午後六時を過ぎていた。
「すみません、帰ります」
誰にともなく声をかけて、力なくノートパソコンの電源を切った。周囲からはパソコンのキーボードを叩く音しか聞こえてこない。終業時刻は過ぎているにも関わらず、誰も席を立たない。当たり前のようの残業している。
結局、午後の仕事は保護者対応で終わってしまったではないか。
ちぇ、と舌打ちをした。
あまり知られていないが、学校というところは意外にブラック企業だ。残業手当もなく夜遅くまで働かせられ、土日は部活業務を押し付けられる。家庭との両立に悩む教員も多く、女性教員の離婚率は高い。人間関係も劣悪だ。そのせいか、職員室で現金や指輪の盗難も結構あると聞く。なにが教育者だ。まったく、笑って呆れる話である。正直、給料は割に合わないと思う。だが、公立学校の教員ということで世間から高所得だと思われており、手厳しい批判ばかりくだされる。
もう辟易する。
刑事が来たのは、赤間が仕事を切り上げるために職員室のデスクの片づけをしている時だった。職員室前の廊下が騒がしいことに気がづいてはいたが気づかないふりをした。
「赤間先生、ちょっといいですか」
事務長の男が職員室に駆け込んできた。いつもは青白く神経質そうな面立ちだが、今日はいつになく殺気だっている。
また何かあったのだろうか。さっきの保護者がまだ何か言っているのか。
「警察が来ています」
と赤間の耳元でささやくと、冷ややかな眼差しを赤間に向けた。
「私ですか?」
「そういうことです」
事務長は顔をしかめた。
何か事件があったことは、事務長の顔をみてすぐわかった。
「わかりました。すぐ行きます」
赤間はこみ上げてくるものをなんとか抑えて、事務長の後に続いた。向かった先は事務室の隣に位置する応接室だった。応接室の肘掛け椅子には校長がかけていた。校長は笑みを浮かべ雑談に花輪を咲かせている。そのテーブルを挟んだ向かい側の長ソファーに見知らぬ人物が座っていた。赤間は男から放たれる凄みのようなものに圧倒されそうになったが、保護者が一緒にいないことに一瞬だけ安堵した。その場にいたのは、グレーのスーツを着た中年男性と紺色のパンツスーツの三十前後の女性の二人組だった。
「お待たせしてすみません」
慌てた様子で頭を下げた。
赤間が応接室の肘掛け椅子に腰掛けるや、鋭い目をした中年男の刑事が尋ねた。
「以前、緑中学にいた赤間先生ですよね」
TVドラマさながらに胸のポケットから警察手帳を取り出した。これにはさすがに驚いた。目を見開いて刑事を見上げると、本物の刑事の迫力に恐れをなし全身が小刻みに震えてきた。
「は…はい。そうです。何かあったのでしょうか?」
突然の出来事に、赤間はおろおろと答えた。
「緑中学を卒業した生徒について訊きたいことがあるんです。北川紫音さんという生徒のことは覚えていますか」
予想外の質問に力が抜けた気がしたが、自分を落ち着かせようと唾を飲み込んだ。
「はい。担任でしたから。中学二年と三年の時です」
「北川さんはどういう生徒でしたか」
「あの、何か事件でも起こしたのですか」
一瞬、間があったかのように感じたが、刑事は淡々と告げた。
「北川さん、亡くなりました。今朝、何者かに殺害されました」
刑事の無機質な声に耳を疑った。
どういうことだろう。北川紫音が殺されたなんて。
中学生だった紫音から今の姿は想像つかないが、おそらくろくな人間にならなかったのだろう。これは間違いない。真面目な生徒でなかったし、清廉潔白な子どもでもなかった。むしろ、事件に巻き込まれてもおかしくない。だが、現実に殺害されたとなるとなんだか落ち着かない。
赤間は所在なさげにその場に立ち尽くした。
ただいま、と言っても返事はあるわけない。わかっていてもやってしまうのが独身の四十女の悲しい性だ。赤間は人気ないマンションの奥から冷たい空気が伝わるのを両頬に感じた。
なんか、さみしい。猫でも飼おうかしら。
独身女の三種の神器の一つであるペットまで手にしたらますますヤバイ女になってしまう。赤間はそれを打ち消すかのように思わず首を振った。
人には人の人生がある。恋の一つもしないで、結婚もしない人がいたっていいのだ。私はこれでいい。
赤間は自宅マンションに帰宅すると、すぐにリビングのテレビをつけた。特に見たい番組がある訳ではなかった。ニュースで何か得られる情報があるような気がしたからだ。一通り番組を確認した後、テレビから流れるニュースが耳に入った。
「今朝、渋谷区のホテルで若い女性が首を絞められて倒れているのを、従業員が発見して、警察に通報しました。この女性はすぐに病院に運ばれましたが、すでに死亡が確認されました。この女性は、練馬区に住む無職北川紫音さん二十五歳で、首をベルトで絞められていたということです。ホテルの防犯カメラで北川さんとホテルに入った男が確認されており、警察では事件と何らかの関係があるとみて、その男の行方を追っています。次に…」
赤間は鞄の中からスマホを取り出すと、気持ちが逸るままLINEをポチポチした。緑中学で同僚だった吉村にLINEを送った。吉村は紫音の一年の時の担任だった男だ。恐らく、吉村のところにも警察は行っただろうとすぐに思った。
吉村先生は何を聞かれたのだろうか?何を答えたのだろう?
いつまで待っても既読にならなかった。
もしかして、まだ警察と話しているだろうか?あいつ、余計なこと言いそうだ。
全身が震えているのを赤間は感じた。今頃になって、正義を振りかざして話すことなどできない。私ができることはなにもないはずなのに。
一つの記憶がはっきりしてくると、別の記憶もはっきりとしてくる。女はみな昔のことはよく覚えているものだ。スマホをを握ったまま目を瞑ると、まだあどけない少年の顔を思い出した。自分の知りようのない日々が、垣間見えた気がした。
あぁ…、翔也だ、鈴木翔也なの。まさかね…。
「失礼します。赤間先生、紫音がヤバイ」
昼休みの職員室に女子生徒たちの酔狂な声が響き渡ると、教員たちは一斉に顔をあげた。
担任教師の赤間は職員室のデスクに窓を背にして座っていた。職員室の入口へ視線を向けると、クラスの女子生徒数名が立っていた。身なりも正しく、一見真面目にみえる子たちだった。
こういうヤバイ子にみえない子が一番ヤバイ、と赤間は思った。
職員室の最前列には教頭のデスクがある。教頭が目を鬼のようにして赤間たちの様子を探っていた。教頭が身を乗り出して注視していことは振り返らなくてもわかった。
「みんな、少し静かにね」
赤間は人差し指を口に当てた。
女子生徒たちは職員室中の教員の興味津々の視線を感じると、声のトーンをほんの少し落とした。
「赤間先生、紫音が大変なんです」
静かにしろと言っているのに。なんて頭が悪い子たちだ。
赤間は表情を取り繕って、デスクの下で組んでいた足を正した。
「どうかしたの?」
一瞬間があいた。女子生徒たちは互いに目配せしていたが、その中の一人が話を言いにくそうに切り出した。
「先生、あの…。紫音と翔也君が…。」
赤間はにわか信じられず、眉をひそめた。
「あんなところで?本当なの?なにか秘密の話でもしていたんじゃないの?」
「違います。だって紫音自慢するもん。翔也とやったって」
いつのまにか隣にきていた生徒が耳元で楽しそうにささやいた。
「…。わかった。紫音さんとそれとなく面談してみます」
赤間は一呼吸置いて言った。
「まだ事実かどうかわからないことを、おもしろおかしく言いふらすことはしないように」
「はあーい」
女子生徒は互いに顔を見合わせると、無駄に勝ち誇った笑みをみせて職員室を出た。
受け持っているクラスの女子生徒たちから、北川紫音がクラスメートの鈴木翔也を頻回に女子トイレに連れ込んでいるらしいと知らされたのは今日が初めてではなかった。
赤間は彼女たちからそれを聞いた時、まさか学校でということはないだろうと思った。噂話には尾ひれがつきものである。その反面、紫音ならあり得るとも思った。
あー、気が重い。そしてくだらない…。
赤間は額に手をあて紫音のこと考えた。いつのまにかデスクに置いていたマグカップを握りしめていた。
なんとかしなければならないか?他の教員にも伝えてトイレの見回りでもするべきであろうか?こんな子どものことをいちいち信じてもいいのだろうか?一方の言うことばかりを鵜呑みにするのはよくない、というかできれば関わり合いになりたくない。
「北川紫音は男子とばかりくっついているから女子に嫌われているね。成績は悪いけど、そういうことはすごく学習するからね」
「そうですね」
赤間が冷めたコーヒーを口につけずに考えていると、隣のデスクの吉村から声をかけられた。
吉村は紫音の去年の担任だった男だ。吉村はお茶をすすりながら、小さな声で毒づいた。
「紫音はトラブルメーカーだよね」
四月に担任になった時、前担任の吉村からの引継ぎで紫音は面倒な案件だと伝えられた。紫音は普通教育と支援教育と区別することが難しいボーダーの子どもだという。成績はもちろん良くない。五教科を足して合わせても百点にも満たなかった。行動においても問題があり、思い込みが非常に激しい子どもであった。事実ではないことを実際に被害にあったかのように話を創り出す。嘘つきで話を誇張して盛る。ここまでくると妄想癖があるとでもいうのだろうか。
とにかく、紫音はクラスメートの悪口ばかりを吹聴しているトラブルメーカーで、クラス中から嫌われていた。しかし、本人はまったく気にしていないようだった。まさに柳に風だ。異性関係もだらしなく、放課後は男子の家によく入り浸たっていたという。いつかはこのようなことになるのではないかと教員の間でも危惧されていた。その矢先のことだった。
紫音は間違いなく発達障害である、と赤間は思っていた。以前勤務していた支援学校で似たような子どもたちを見てきたからである。発達障害といっても程度はそれぞれである。そう、個性があるのである。
最近はこのような子どもが非常に多いという。理由は簡単だ。医学が進歩し以前よりも容易に診断がつけられるようになった。ネットやメディアでも盛んに取り上げられており、発達障害という言葉を知らない人はほとんどいないだろう。発達障害は他の病気以上に市民権を獲得しているのだ。それにも関わらず、親が我が子の発達障害を受け入れていないケースが多いという。親に全く病識がないこともよくある話だ。実際のところこれが一番やっかいだ、と赤間は思っていた。こういう親に限って子どもの不始末はすべて学校のせいにするからだ。学校が悪い、教員が悪いとさえ言う親が一定数存在する。こういう時こそ学校が毅然とした態度で親と関わらなければならないはずだ。だが、現実は親のご機嫌伺いに始終する日々ばかりだ。
赤間は、地蔵のように座っているだけの教頭を苦々しく見た。
生徒が職員室に駆け込んできてもスルーするのか。なにも関心がないのか。
モンスターペアレントという言葉があるが、モンスターペアレントは初めからモンスターだったわけでない、と赤間は思っていた。学校は子ども育てることは下手だがモンスターを育てることはお上手だった。教員は保護者の下僕なのだろうかと考えることもあった。学校現場における教員の苦労は聞くも涙、語るも涙の物語なのだ。
何人も普通教育の権利は侵されてはならないのだ。国民である以上享受されるのは当たり前なのである。だが、義務を果たさず権利ばかり主張する親がなんと多いことか、と思う。
紫音の親もおそらくこの部類であろう。紫音くらいであれば、支援学校への進学も選択肢として提示されていたであろう。しかし、紫音の母親が小学校のPTA副会長であったことから、支援学校への進学の話など一蹴され、普通学校に入学に至ったようだ。
要するに紫音の母親も学校によって育てられたモンスターだった。
御多分に漏れず、不出来な子どもの親は不出来である。
赤間はこの春に新規採用になったばかりだった。それまでは東京都内の特別支援学校で長い間非常勤講師として勤務していた。非常勤講師とは一年契約の契約社員のようなものである。要するに教員採用試験がなかなか受からなかったのである。紆余曲折の末に、晴れて念願の中学校教員に正式採用となった。
四月にこの学校に勤務した時、赤間は子どもの瞳はなんて澄んできれいなのかと思った。心も純真だと思った。たぶん見たいものしか見えていなかったのだ。
だが、教育現場は思いえがいていた教育とはかけ離れていた。赤間が考えていた以上に今どきの子どもは生き擦れていた。ズル賢くそして利口だった。親の前と学校で態度を上手に使い分ける外面のいい子、教師を見下した態度をとる悪ガキ、際限ない要求で教師を泣かせる保護者、事なかれ主義の同僚たち、保護者のご機嫌伺いばかりでまったく頼りにならない管理職たち。学校という場所は社会の歪みだと思った。
この国はおかしい。こんなはずじゃなかった。成績が悪いのは学校のせいなのか、生活態度が悪いのも学校のせいなのか、何もかもが学校のせいなのか。いいや違う。家庭のしつけが悪いからだよ。親の頭が悪いからだよ。
思っていることを言ってやれたらどんなにいいだろうか。理想の教育など何処にもないことがはっきりとわかった。正義というものは流動的であてにならない。正しいことを追及してなんになるのだろう?どうやって折り合いをつけるのかが大事なことだ。
私は何も期待しない。淡々と仕事をこなせばいい。
赤間は腰を浮かせて椅子を座り直した。余計なことは考えまいとパソコンを立ち上げると、黙々とパソコンのキーボードを叩いた。
紫音と翔也のことはどうなったのだろう?あれから生徒たちは何も言ってはこない。
昼休みの休憩の後、赤間は教員たちが忙しそうに午後の授業の準備をする様子をぼんやり見ていた。
「赤間先生、なんだか疲れた顔していますよ。大丈夫?眉間に皺がよっていますよ。伸ばして、伸ばして」
隣のデスクから吉村が話しかけてきた。目を細めて笑いながら、眉間に指をあてクイクイと指を曲げて見せた。吉村は、女よりも聞きたがり知りたがり喋りたがりのヤバイ男だった。笑いながら、人の不幸をのぞき見するような男だ。信用してはいけない男なのは間違いない。
「大丈夫です」
赤間は事務的に告げた。吉村なんかにつきあう気分ではなかった。
「せっかくの美人が台無しだよーん」
「…」
この日もまた一人溜息をついた。とはいえここは職員室だ。鵜の目鷹の目で見張られているようなものだから気を抜くことなどできない。心休まることなどあるわけがない。疲れた、と呟きたくなるのを我慢した。
その後も吉村が能天気に話しかけてくるが、赤間は無視することにして、苦笑いを返した。
ぼんやりと考えながら仕事をしていると、廊下から耳障りな足音が聞こえてきた。程なく、職員室の引き戸がガラッと開けられた。
「失礼しまあーす」
聞き覚えのある声だ。
赤間はつと顔をあげ、うんざりと視線を入口へ送ると、先日とは別の女子生徒が入口に立っていた。
ううっ。また嫌な予感がする。
「赤間先生、大変。紫音と翔也が今トイレに行ったよ」
「え…」
大変、というわりには女子生徒たちの顔は嬉嬉としている。まったく人の不幸の蜜の味なのである。それは教員にとっても同じだ。どいつもこいつも雁首並べて聞き耳を立てていた。
真の敵は背中にありか…。
赤間は内心を押し隠して女子生徒を見た。
この子たちは自分たちが正義の味方とか救世主のように思っているのだろうけど、私にとっては災いをもたらすトロイの木馬のようだわ。
「二人で?場所は?」
赤間は女子生徒に促されるようにして一階のトイレへ急いだ。女子生徒たちは意気揚々だった。きっとこの一挙一動を肴にするのだろう。多勢に無勢だから紫音も気の毒なことだと思った。だが、自業自得だ。私が気にすることではない。
教えられた女子トイレは職員玄関のすぐ近くで、傍に事務室もある。来賓者が使用することも想定しているので学校のトイレの中でも一番きれいで清潔なところである。人目につかない場所などではない。そんなところで女子生徒が言うようなことが起こるのだろうかと、赤間は首を傾げた。
「あなたたちは教室に戻りなさい。根も葉もないことで大騒ぎしないでね。他の子には何も言わないようにね」
赤間は教師然りの態度で言った。
「はーい」と女子生徒は興味津々な様子を隠せないようにスカートを翻した。
赤間はそのかわいい後ろ姿をみて逃げ足だけは天下一品だと思った。
中身は外見ほど可愛くもないくせに。
女子生徒の姿が見えなくなると、赤間は目を見据えてトイレの前に立った。
なんてことしでかしてくれたんだ。
トイレの個室の一つが使用中になっていて、思わず耳を塞ぎたくなる音を感じた。
中の様子からして一人ではなさそうである。
ここで間違いない。紫音と翔也はここにいる。
回れ右をして戻りたかったが、もう引き返せない。進む道しか残されていないなら行くしかない。赤間は意を決してトイレのドアをノックした。
返事はない。するわけないか…。
赤間はドアを叩き続けた。拳に神経を集中させて渾身の力を振り絞った。
この騒ぎに気付いて、他の教員も集まってきた。その中には知りたがりの吉村もいた。
「どうかしましか」
やはり腐っても鯛なのか、さすがに吉村の表情は曇っていた。
「ええ。うちのクラスの男女が二人でここのトイレの個室に籠っているそうなんです」
「ああ。北川ね」
「そうです」
赤間が答えるや、吉村は赤間を乱暴に押しのけた。トイレのドアに耳をあて中の様子を探り、一人で何かに納得している仕草をみせた。突然、赤間に顔を向けると、手で胸をポンポンと叩いた。
「僕に任せて」
「あの…。大げさにすると出るに出れなくなるんじゃないでしょか」
吉村は赤間を遮り、片手をドアにあてうっとりと宙を見るような表情をしたかと思うと突然叫び出した。
「北川、大丈夫か!助けに来たぞ。北川!」
吉村は叫びながらドアを叩いた。青春ドラマさながらだった。
この人、ヤバイかも。
赤間は吉村のことを腐っても鯛だ、なんだかんだ言っても教師だと思ったことに後悔した。
赤間が目を伏せると、その先にその中に役に立たない教頭もいた。教頭は老眼鏡を外して胸ポケットにしまうと、もの凄い形相でトイレの中を見渡した。
「早く電気つけて。いつも言っているでしょ。暗い場所はよくないと。暗くて死角になるところは犯罪の温床になるんだよね。学校で婦女暴行なんて」
「…。まだ、犯罪という訳では」
赤間は教頭を見据えながら声を絞り出した。
「女子がこんなことするわけないじゃないか。それより、早く電気を。まったくなんてことだ」
教頭はうんざりするように呟いた。教頭に指示された通りにトイレの電気が点灯される。周囲は蛍光灯の淡い光に照らされ、その光は吉村を無駄に明るくに照らした。
「うぉー、文明開化だー!」
突然、吉村の意味不明な言葉が響く。この場違いな言葉に教頭は目を剥いた。
「吉村先生、こんな時にふざけるな!早く救助してあげて」
「わかりました。おーい。北川、先生が助けにきたぞー」
吉村は一心不乱にドアを叩いた。
赤間はこの様子を至極冷静に見ていた。
こんな茶番をだれも何とも思わないのだろうか?
慌ててわめきちらしている様子は現役中学生とそう変わりない。おそらく大学を卒業してすぐに先生と呼ばれ、ずっと子どもとしか関わってこない。その間に子どもは成長していくが、教員はまた新しい子どもと関わることになるため、ずっと同じままなのである。そのせいなのか教員の中には常識のないものが一定数いる。
こんな連中でも自分の上司であること間違いない。この後、自分はこの連中に槍玉にあげられるであろう。
紫音のやつ、本当になんてことしてくれたのだろう。
赤間は体の横で拳を握った。
「翔也、こっちだよ。今なら大丈夫だよ」
「オ・ケ!」
ほんの数分前、紫音はこの女子トイレに誰もいないことを確認し、翔也を女子トイレに招き入れていた。ここのトイレを落ち合うことは授業中にメモを回して約束していた。
この時点では合意のもとというやつであった。
「あいつらずっとあたしを見ているし。見つからないように来るのは大変だった」
紫音は首をすくめて困ったような声を出した。
翔也はいつも通りに女子トイレの個室に入ると、しっかり鍵をかけた。紫音は翔也の背中に手をまわし、しっかり抱きついた。
「嫌なことは忘れて、ずっとここにいようよ。あたし、ずっと翔也といたい」
嫌なことなど忘れることはできない。紫音はたださぼりたいだけだった。
「今いいの?」
翔也は紫音の耳元で囁いた。紫音は眉をㇵの字にして翔也をうっとりと見上げた。
コンコン、コンコン。
突然ドアがノックされた。同時にトイレの前の廊下の騒音がぴたりと止まる気配を感じた。ドアのノック音に二人の身体が硬直した。
「ヤバイ。みつかるかも」
紫音は少し驚いて翔也を見た。
「大丈夫だよ。腹痛いとか言っておけば」
翔也は紫音には強気なことを言ったが、少し気持ちがぐらついていた。トイレットペーパーを流してみたり、便座の蓋を閉めてみたりと偽装工作し始めた。
「どうせ諦めて隣の個室に入るって」
もともと翔也は物事を深刻に考えない質であった。
「それなー」
紫音も余余裕綽々にせせら笑っていた。
コンコン、とドアはいつまでもノックされる。
「まじ、しつこいんだけど」
紫音は口をヘの字にして、注意深くドアの外の様子を探った。
「中で何をしているの」
「えっ。うっそー。赤間だ」
担任の赤間から声をかけられ、二人はたじろいだ。
「まじでー。あいつ使えない女なのに」
紫音はいつも赤間を小馬鹿にした態度をとっていた。赤間だけでなく学校の教員すべてのようだった。翔也から体を離すと、赤間に対する敵意丸出しの目で翔也の顔を見た。
「絶対にチクリだ。あたしと翔也が仲いいから。あいつら僻んでいるんだよ。ダッサー」
紫音は怒りで鼻息を荒くした。誰に対して、何に対してなんてどうでもよかった。
あたし何も悪くない!
紫音は反省したことがなかった。今までも事あるごとに人のせいにして生きてきた。むしろ翔也の方が素直であった。
「サボっていたって言えばいいじゃん」
翔也は投げやりな言い方をした。
「そんなこと信じてもらえないよ」
紫音は翔也を睨みつけた。
お母さんにばれるよ。どうしよう。
紫音は悪い頭で必死に考えた。何も浮かんでなんてこない。喉がカラカラになり言葉も出てこなかった。
「ねえ、翔也。なんか、先生たちいっぱいいるし」
「うん…」
二人とも声を押し殺して、時が過ぎるのを待っていた。
教頭の声とともに、トイレの照明がつけられた。もう万事休すか、と紫音は絶望した。押しつぶされそうな沈黙の中、トイレの照明が二人を照らしていた。
お願い。いなくなって。
もう祈るしかなかった。
神様なんて信じたことなかったけど、神様仏様、もう誰でもいいからあたしを助けて。
トイレの中は静まり返ったままだった。すべての外界の音が遮断され、もう何も聞こえなかった。手が汗ばんで、心臓の鼓動だけが速くなっていった。
「中にいるのはわかっているの。開けなさい」
再度、赤間のヒステリックな叫び声が響き、紫音はビクンと身震いした。
「翔也、どうするの?なんとかしてよね」
顔を上げて翔也の表情を伺ったがそこからは何も読み取れなかった。
翔也は黙ったままだった。ただ宙を見つめていた。それをみると紫音は泣きたいくらい絶望した。
「早く開けなさい」
赤間はさらにヒートアップした声を出した。
静寂が過ぎた。ようやく神様などいなかった、と紫音は理解した。神様だけでなく、この世の中には情け容赦も血も涙もなかったことを、頭が悪いなりに理解した。
「出よう」
翔也が観念したかのように言った。紫音は信じられない思いで翔也を見上げた。
怒られたら翔也のせいだ。
紫音は、手が激しく震えるのを感じながら、恐る恐るトイレのドアを開けた。ドアがそろりと開いて、トイレの中から紫音と翔也がでてきた。
赤間は蝋人形のような冷たい表情で立っていた。微動だにせず、視線だけを紫音に投げた。
紫音は顔を紅潮させ、乱れたブラウスの前を手で押さえていた。相変わらず大きな胸が双丘のようにそびえ立っていた。翔也はトイレの個室の壁に手をかけて立っていた。目を泳がせ
ている紫音と対照的に翔也は悪びれた素振りも見せていなかった。
憎たらしいほど冷静じゃないか。
赤間は、しどけない二人の姿をみて腰が抜けるほど驚いたが、こんな子どもに負けてはならないと自分にハッパをかけた。
こんなことだろうと思ったけど。なんなのよ。ここは学校ですけど。
これから先の教員人生で、どんな状況が待ち受けていようとも今より驚くことはないだろう。赤間はうわずりそうになる声を飲み込んで、
「ここで何をしていたの?」
先に沈黙を解き放ったのは赤間だった。二人は押し黙っていた。
「何か言いなさいよ。難しいことを聞いているわけじゃないけど」
赤間が畳みかけると、紫音は咄嗟にみんなにばれたくない一身で嘘をついた。視線を宙に彷徨わせて、声を絞り出した。
「あたし、嫌だって言ったのに」
女優さながらに、泣きそうな声を出した。実際は泣いていなかった。翔也はそんな紫音を睨みつけ、
「オレ無理やりなんてやってねーしぃ。紫音から誘ってきたんだしぃ」
と必死に言い返した。
「あたし何も悪くない!」
紫音は鼻の孔を大きくして翔也を見上げた。翔也はその表情をみてニヒルに笑った。
「オレだけが悪いなんておかしくねぇー。おまえ、嘘ばっかりつくなよ。ブスのくせにぃー」
と仏頂面で毒を吐いた。
紫音が信じられない目で翔也の顔を凝視すると、大好きな翔也の唇に笑みが見えた。いつも紫音に向けられていた笑みだった。この笑みに紫音は何度も秒殺された。でも今のこの笑みは嘲りの笑みだ。
翔也、今あたしのこと笑ってるの?
紫音はまさか翔也からブスと言われると思わなかった。もう驚きのあまり声が出なかった。翔也、今なんて言ったの?
驚きが怒りに変わるのを抑えることができなくなった。紫音は怒りに顔を真っ赤にした。
ブスのくせにだぁー…。ブスぅ…。
紫音の心の中で暗い炎が燃えあがり、紫音の体中の血を沸騰させた。紫音は抑えられない怒りで全身が震えてくるのを感じた。震えで力が抜けてきた体を支えるためにトイレのドアにもたれかかっていると、突然に不気味な笑い声が漏れた。
「紫音さん?」
赤間が声を掛けた時、紫音は怒りなのか悔しさなのかわからない何とも言えない顔をしていた。
紫音はブスを言われ続けた過去の出来事を思い出していた。
紫音ははっきり言ってブスだった。生まれた時からブスだった。やっかいなことに自覚はゼロ。根拠のない自己肯定感だけは極めて高かった。
ブスとは顔のことか、それとも性格も含めてなのだろうか、と思う時があった。
紫音の場合は考えるまでもなく両方だった。
ブスは世間が思っている以上にブスと言われている。紫音もブスと言われ続けた一人だ。人は外見でなく中身などというが、やっぱり外見が良いことに越したことはない。残念ながら、世の中は美人は善でブスは悪なのだ。美人なら許容してもらえることも、ブスには容赦ない。
紫音は小学生のとき、クラスの男子に何をしてもブスのくせにと言われた。テストでいい点数をとっても、真面目に掃除して先生に褒められてもブスのくせにと理不尽なことを言われた。忘れ物をしたり、ドッジボールや大縄跳びで失敗するとブスだからと一方的に責められた。
ブスという言葉は紫音のすべてを否定するものであったと言っても過言でなかった。ブスと聞くだけで、紫音は内臓が突き上げてくるような激しい怒りを感じた。
そう、ブスという言葉は凶器にもなる。
中学にあがるとその手の面倒は減った。それは、紫音が変わったからではなかった。男子たちの紫音を見る目が変わったからだ。
紫音はませた子どもだった。他の同級生と比べても胸が大きく、ムッチリとした色気があった。制服のブラウスに君臨する大きな胸を強調するために、ボタンはいつも三ツ目まではずしていた。当然、スカートは流行のニーハイ(膝上)で。それまで悩まされてきたことが嘘のように、クラスの男子は紫音にすり寄ってきた。男子からねっとりとした視線を走らせられることは快感であった。
紫音はブスである以上に馬鹿だった。もっとましな言い方をすれば、紫音は少し考えが足りない子どもだった。クラスの男子から性的な対象とされていたことには全く気がつかなかった。むしろ、初めて自分が受け入れられていると勘違いした。これこそが自分の価値を証明するものであるとさえ思った。
気がつくと、クラスの男子数名と親密な関係になっていた。
翔也もそのなかの一人だった。紫音は翔也に夢中になっていた。性に関心を持つ、年頃の男女が、幼く浅はかな関係をもってしまうことに時間はかからなかった。
放課後になると、翔也は人気のない教室に紫音を誘った。教室の隅で、翔也に胸を触られ、関係を迫られたりしたが、紫音は、あっさりと受け入れた。むしろ、必要とされている感があって嬉しかった。それ以来、翔也は紫音を誘ってきたのであった。
紫音は挑むように翔也を見た。
「なんだよ。嘘つき」
憤然と言い返してきた翔也の視線に耐えられず、紫音は視線を反らした。
「あたし、嘘なんてついていないし」
翔也は瞬きすることも忘れて紫音を見ていた。
紫音は翔也が好きだった。これはまごうことなく真実だった。だから、翔也も同じ気持ちだと思っていたが、翔也はそうではなかったらしい。この残酷な現実を前に、紫音は打ちのめされた。抑えることができない激しい怒りはやがて、私怨のエネルギーとしてフツフツと沸き上がってきた。
翔也、絶対に許さない。
怒りと愛は紙一重だった。
翔也の顔を見つめて、紫音は目を鬼のよう鋭くし、負け犬の名ゼリフを呟いた。
覚えていろよ。
「あたし、翔也くんに無理やり相手をさせられたンですぅ。首とかぁ絞められたり、髪の毛とかぁ引っ張られたりして。怖くなって、断れなかったンですぅ。助けてと叫んだのに」
紫音は両手で顔を覆った。
「…」
白々しいほどのウソ泣きに、赤間は口が開いて塞がらなくなった。それは翔也も同じようだ。翔也は眉をひそめて紫音を見ていた。少し間が空いたところで目を剥いて、
「なにそれ。オレそんなことしてねーしぃ。」
とふてぶてしく返した。
紫音はさらに大袈裟に泣いてみせた。制服のシャツから自慢の巨乳がこぼれていることに全く気づいていない様子だ。
状況証拠として被害者であるということを強調するかのようだと赤間は思った。
翔也だけが悪いのではないだろう。紫音は自分さえ良ければいいのか。まったくなんて子だ。
「無為やりじゃないし。同意だし」
翔也も懸命に言い訳した。
やることは大人でも所詮中学生の子どもだった。お互いに、泣いたり、わめいたりと、ひたすら罪を擦り合った。
「同意なんでしてないしぃ。抵抗したけど、服脱がされて逃げられなくなって」
「嘘だよ、服だって自分で脱いだんじゃん」
「だって殴られたらやだもん」
今時の子どもは恥じらいという言葉は知らないのだろう。
二人の痴話喧嘩を赤間は醒めた気持ちで見ていた。
見苦しいほどの擦り合いだ。あー嫌だ。こんな子どものために苦い汁を飲まされた。
自分の身に降りかかる不幸な出来事を嘆いた。
トイレからでてきた紫音の顔を見た時、赤間は紫音がウソをついていると直感した。でも信じるふりをすることにした。だって面倒だから。
「紫音さんはウソをつくような子じゃないとちゃんとわかっているから。だから先生にもウソつかないでね」
「は、はい」
この小娘は演技派だ、と赤間は思った。上手に泣く顔をつくっているのにさっぱり涙はでていない。
「聖子ちゃん泣きか」
思わずつぶやいた。赤間は醒めた目を正して優しい表情をつくった。赤間は紫音を見習って女優にならなければと自分に言い聞かせた。
「心配しないでね。落ち着いてね。先生と二人で話をしましょう」
「翔也君は吉村先生と教頭先生に話を聞いてもらいましょう。それぞれ言い分はある。ここで言った、言わないで終わらせてはならないから。大事ことだから」
紫音はしおらしく頷いた。それを見た時、赤間はドン引きした。
あんた、そういうキャラの子どもだった?こんな小娘にムラムラきた翔也も馬鹿だ。まあ同レベルであるのだけれど。
赤間は教頭に連れて行かれる翔也の後ろ姿をみていた。ずっとみていた。
念願の中学校の教師になってまだ三か月しかたっていないのに。こんなことに巻き込まれるなんて夢にも思わなかった。
教頭と翔也の姿が見えなくなるのを確認すると、赤間は紫音と保健室へ向かって歩き出した。チラリと紫音を見ると、紫音はすっかり立ち直っていた。もう泣いていなかった。まあ始めから泣いてなんかいないのだが。女は強い。
「先生、翔也みたいな馬鹿なやつのことなんか信じないでね。あいつ最低だから」
馬鹿とおまえが言うな。
赤間はズルッとこけそうになるのを両足でしっかりと支えた。気を取りなおして教師然りで声を掛けた。
「ひどいことされたものね。でも大丈夫だからね。」
「先生、あたし何も悪くない!」
「うん。わかっているから。とにかく保健室へ行こう。けがはしていない?」
「うん。大丈夫。先生、お母さんに言わないで」
「へえ?」
「お母さんに言わないで欲しいの。だって怒られるし。」
「そんなことないよ。心配するよ。病院とか行かないといけないし。体大事にしないとね」
「えっ、ていうか。なんともないよ」
そういえば紫音は翔也に負けず劣らずに馬鹿だった。すべてにおいて馬鹿だったから救いようがない。親の顔がみたいなどと巷では言われることであるが、赤間は生徒の親の顔など絶対に見たくなかった。どうせ親も馬鹿である。みなくてもわかる。
教育現場では馬鹿も個性なのである。尊重すべき対象なのである。
ああ、面倒くさい。こんな子どものために、自分の人生を犠牲にするなんて。
紫音の母親と話をすることを想像すると体が震えてきた。
私だって、あんたの親になんて言いたくないんだよ。言わないですむならそうしたいんだよ。
「失礼します。赤間です」
「どうぞ」
赤間は紫音を連れて保健室ドアをノックした。保健室は一階にあり、事務室の向かい側である。保健室には養護教諭が二人いるのだが、今日は白石という女の養護教諭が一人でいる。白石は自分のデスクに座りパソコンを開いていた。
「忙しいところすみません。相談です」
白石は紫音の服装の乱れに目が釘付けになっていた。
「えー。なにかあったのでしょうか」
それはそうだろう。どうみても事件の被害者そのものにみえる。
赤間は白石の様子を一瞥すると首をすくめた。
「北川さんのことです」
赤間は白石に今の出来事について簡単に説明したあと、白石も加えて、紫音から慎重に今回の出来事の経緯を聞き取りすることにした。
白石は自慢の黒革の手帳とハリーポッターのボールペンを手に身を乗り出してきた。赤間の視線に気づくと
「これ、吉村先生からの去年の修学旅行のお土産なんですう。意外と書き味いいんです」
と顔を赤らめてボールペンの先端をひらひらさせた。
「そうでしたか」
赤間は素っ気なく遮った。馬鹿らしくて聞くに堪えられない。保健室は職員室から離れているため、誰かと話すことに飢えているのだろう。白石はいつもどうでもいい話をしたがる。それでも赤間の冷たい視線を感じたためか、急に我に返り緩んだ表情を引き締めた。。
白石は紫音の顔を覗き込むと、自分で勝手に納得し一人頷く。怪訝な顔の紫音から赤間のほうへ視線を替えると、黒革の手帳を抱きかかえ鼻息を荒くした。
「私、こういうこと慣れてますから任せてください」
とデキる教員然りに話を始めた。白石はボールペンの先を宙でくるくると回しながら、頭に浮かんできたことを黒革の手帳の手帳に詳細を書き込んでいる。
赤間は、白石が勘違いの総本山のような女だったことを今さらながら思い出した。白石はおかしな考えを次々と思い浮かべ周囲を混乱に招きいれる。まるで毒蛇の巣を頭の中に作っているかのようだったのだ。
ここにもヤバイ人がいた、と思った。赤間は白石に話を聞いてもらうとしたことが間違いであったような気がした。白石のいつになくやる気に満ちた顔に肩透かしを喰った気分だった。
あんたさ、いつもやる気ゼロだよね。人の不幸を覗き見することはそんなに楽しいか?
白石は、その後も紫音の話に大袈裟にうんうんと相槌をうって黒革の手帳に書き込んでいった。少なくとも、今まで見たなかで一番輝きを放っているかのようだ。怒りと愛が紙一重なのと同じで、悪意と正義もまた紙一重なのである。
赤間は首に手をあて白石と紫音のやり取りを聞いていた。
なんか…やっていられない。
一人蚊帳の外に置かれぽかんとしている赤間を無視して、白石は降りやまぬ雨のように話を続けていた。
「一番大事なことだから正直に話してね。紫音さんから誘ったわけではないわよね。無理やりだったのよね」
白石は手を胸の前で組んで、紫音を見つめていた。その目は少し潤んでいるようにも見えた。
紫音は白石が同情的であることを察して、被害者然りで喋り始めた。唇の隙間からか細い声を押し出した。
「はい。あたし、そんなこと絶対しません。翔也君に脅されたんです。やらせないと暴力をふるうからと。」
「なんてことなの。その時点でだれか大人に相談できなかったの?」
白石は両手をこめかみに当て、頭をブンブン左右に激しく振った。
「授業中にメモが回ってくるんです。しつこく。今日もメモが回ってきて、トイレに呼び出されたんです」
「メモに何と書いてあったの?」
白石は姿勢を正して紫音を見つめた。
「やらせろ、と書いてありました」
「それだけ?」
「はい」
「そのメモは残っているの?」
「探せばあると思います」
「無理やり暴行され、脅迫めいたことまでされたなんて。なんてことなの。怖かったわね。でももう大丈夫だから」
白石は紫音の両手をギューと握りしめ自分の胸の前に引き寄せた。
「先生、信じて!」
「うん。うん」
二人は互いに見つめ合っていた。
赤間はそれを懐疑的に二人を見ていた。
三文芝居だ、こう思う私は性格が悪いのだろうか。
クラスメートだって二人の関係を知っていたのに、紫音はすべてを否定するつもりなのか、と赤間は思った。中学生の分際で決していいことではない。しかし、好き合うものならお互いにかばい合ったりするということはないのだろうか。紫音は翔也のことをどう思っていたんだろう。赤間は紫音の本当の気持ちを聞いた。
「翔也君のことはどう思っていたの?」
「前は好きだったんです。でも今は…」
紫音は言いづらそうに答えた。
それを聞いて、白石は赤間を押しのけて身を乗り出してきた。
「こんなことされたら、嫌いになるわよね」
紫音はコクリと頷いた。
「なんてことなの。好きだった人にそんなことされるなんて。絶対に許せなーい」
白石は見た目はおばさんでも中身は女子高校生なのだ。恋に恋する乙女なのだ。
ムンクの叫びのまま時が止まった。
白石は完全に別世界にいった、と赤間は思った。
白石の質問はすべてが結論ありきだった。白石にうまく誘導され適当相槌さえうっていれば話がまとまっていったからだ。紫音のほうも語るに落ちるだった。だが、自分の都合の悪いことは決して言わない。
中学生がやっていいことではない。でも、このことには加害者も被害者もいないはずだ。
赤間は椅子の中で座りなおすと
「紫音さん、こんな嘘をついたらダメよ。だって先生は前から知っていたわ。紫音さんと翔也君が二人でトイレに籠っていることを教えてくれた人がいるから」
白石は眉を動かしてこちらを見ている。そこには紫音に対する嫌悪感が透けていた。
「紫音さん、本当なの」
白石は驚きと戸惑いの顔を紫音に向けた。
「本当に脅されたんです。裸の写真も撮られて…。みんなにばらすて言われたし」
「あたし何も悪くない!」
紫音は嘘つきだ。ここまでくると末恐ろしいくらいだ。
赤間は腑に落ちない顔をして、白石が書き込んでいる黒革の手帳に手を取った。それをパラパラとめくりながら、事の成り行きを想像した。
すべてがこの通りになるだろう。紫音は絶対に認めない。
黒革の手帳に目を通しながら考えを巡らせた後、パタンと黒革の手帳を閉じて紫音のほうを向いた。
「本当なのね。信じていいのね」
「本当です」
紫音は、赤間の猜疑心の入り混じる声に対して少し戸惑いを感じていた。翔也との関係が周囲に知れ渡っていたとは予想だにしなかった。紫音はうつむきながら、黒革の手帳に視線を滑らせた。重苦しいくらいの沈黙が落ちた。白石は赤間と紫音の顔を交互に見比べている。
ヤバイ。少し盛りすぎたかな、と紫音は思った。だが、このくらいでいいとも思った。とにかく、紫音は母親に怒られたくなかった。誤魔化さなければならなかった。
それでも、翔也のことを考えると胸がチクチクした。どうしてだろう、と自問するが分からなかった。
この気持ちはいったいどこにもっていけばいいのだろう。翔也、許せないよ。
翔也、あたしのことかわいいって言ったじゃない。
あたしのこと好きだよって言っていたじゃない。それなのに、全部嘘だったの?
紫音は思い出すだけで、はらわたが煮えくり返った。膝の上に置いた拳を震わせ、屈辱感を払拭できずにいた。それにも関わらず、翔也のことが好きだった過去の思いに馳せたとき、心がかき乱されるのを感じた。
だが、今となってはこの気持ちは絶対に認めてはいけないのだった。紫音は額の汗を指先でぬぐい、その指を髪の毛に絡ませた。沈黙に耐えられなくなると、手で膝を摩ったり、椅子の下で足踏みしている。
紫音が息を吸い込んで顔を上げたとき、赤間は無遠慮な視線で紫音を見ていた。紫音は自分にはもう行く道しか残されていないと感じた。
翔也が悪いのだ。あたし何も悪くない!
翔也のことなんて今はもう大嫌いだ、これは本当だ。たった今、嫌いになったのだから。理由は、翔也が紫音をブスと言ったからだ。それは一番言われたくなく言葉だ。だから翔也は怒られて当然のことをしたのだ。
先生や親たちからいっぱい怒られればいい。ざまーみろ。ダッセー。
赤間を膝の上においた手を揉みながら、視線を漂わせていた。
紫音は平気で嘘をつく子どもだ。白石は思い込みが激しく、紫音を被害者設定してしまっている。私はどうしたらいいのだろう。
この問題の真相は別のところあるのではないか、と赤間は考えていた。中学生が学校で関係を持ったことが問題なのである。本当なら二人にそういう指導をしなければならないはずだ。この話では翔也が無理に関係を迫ったかのように婉曲されている。電車などで起きる痴漢の冤罪に近いのではないかと思った。
赤間が考えを巡らしていると、横から声が上がった。
「女子になんていうことするんだろう。結婚するまで大事にとっておかなければいけないものなのに。そう思いませんか、赤間先生」
「そうですね」
二人で沈黙した。もちろん、沈黙の意味合いはそれぞれ違うものである。
赤間は白石の発言に違和感を覚えた。白石は口先は丁寧だがまったく中身のない人間だった。これ以上話し合っても無駄であろうと感じた。翔也だけが悪くなっている。翔也が紫音を犯したという構図になるとなにか大変なことになるのではないかと感じた。どこかでだれかがストップをかけないと暴走していく気がした。
私はどうしたらいいのだろう。
赤間が思案していると、学年主任の太田が血相抱えてに駆け込んできた。
太田は学校という伏魔殿に仕えてかれこれ三十年。大した趣味もなく、家庭でも余される典型的な日本のサラリーマンだ。小太り、いや体格のいい太田は冬でも額から汗を拭きだしているが、この時はいつも以上に暑苦しく見えた。額の汗を拭うことも忘れるほどに慌てふためいている。
「赤間先生、北川紫音さんのお母さんがいらっしゃいました」
赤間がドアに顔をむけると、太田の後ろに眉間に皺を寄せた女が目を見据えて立っていた。
紫音の母の北川温子はバブルを引きずっているような女だった。お召物の白のスーツは昔のものなのか、やや古い印象がある。膝が見えるスカートは見ていてかなりイタイ。持ち物はお決まりのルイヴィトンのハンドバックにロレックスの時計と、成金三点セットだ。ヘアスタイルは前髪にとさかはないが強めのパーマをあてていた。
温子は赤間を目にすると猪突猛進してきた。温子の背後で太田は赤間にペコリと頭を下げるような仕草をした。赤間と視線を合わせることはなかった。
後はよろしくっていうことか。
面倒な案件などに関わり合いになりたくないのであろう。誰だって他人の火で火傷などしたくない。赤間は唇を噛み締め、内心を押し殺した。
赤間と挨拶を交わす間もなく、温子は保健室にずかずか入ってきた。紫音を見つけると眉をひそめた。
「先生、被害にあったのはうちの子だけですか?どうしてこんなことになったのですか」
被害って。いったい…。どのように話が伝えられたのだろう。
赤間は耳を疑った。
お前の娘が男をトイレに誘い込んだんだよ、と言ってやりたいが言えない。
「北川さん、ご心配をおかけしましたことをお詫びします。まだ詳細はわかっていないのです。事がことですから、慎重に話を聞いていたところです」
温子は目を剥いた。
「どう考えても被害にあったんでしょ。うちの子、何も悪くないです!大人いい子ですから、嫌だと言えなかったんです。家でも本ばかり読んでいるような子なんです。男の子と付き合ったりするような子じゃないんです」
「わかっています。紫音さんはそういう子でないことくらい」
白石が温子に同調するかのように答える。
「学校の管理の問題でしょ?こんなことが学校で起こるなんて信じられない」
「学校では今後どうするつもりですか?第三者委員会を立ち上げたりしますよね?教育委員会にはもうお話されたのですか?まさか、穏便に済ませようという訳ではないでよね」
「お母さん、落ち着いてください」
赤間と白石は声を揃えた。
「落ち着いてなんていられません」
「紫音さんの気持ちもあることですから」
「うちの子は被害者ですよ。気持ちってなんですか?こんなことされて親として黙っていられません」
「警察沙汰になったら大変なことになります」
「だから、うちは被害者なんです。困ることなんて何一つありません」
何を言っても聞く耳をもたない。相手を威圧して、自分の思い通りに物事を動かすタイプなのであろう。
罪とはこうして作られていくのだろうか。
赤間は口を噤み、不条理なことでも理路整然と語る温子を見据えた。
何を言っても無駄だ。この人わからない。
「オレ、無理やりなんてしていなし」
「相手が嫌がっていたら、それは同意とは言わないよね」
「だから、嫌がってなかったって」
翔也は教頭と取調室にいた。
取調室とは、職員室と直接ドアでつながった面談室のことだった。生徒が何か問題を起こした時に使用されることが多かったため生徒の間でこう言われていた。正面に大きな窓があり、手前に折り畳みできる長テーブルとパイプ椅子が数個あるだけの部屋であった。長テーブルを真ん中にして二人は向かい合って座っていた。まさに取調べ中だった。
「興味がある年頃ではあるが、まだ中学生だよ。もっと大事なことがあるでしょ。それに嫌がる女性に無理やりなんて。大人だって許されることでない」
「俺、無理やりなんてしていないし。同意のうえだし。いつも紫音が人のいない場所を探してきていたんだし」
「いつもと言うと?今回が初めてでないの?」
「だから、違うって言っていますが」
「何回目だったの?」
「そんなのもうわかんないし」
「数えられないくらいだというのか?」
「うーん。そういう訳でないけど、いちいち覚えていないし」
教頭は教育者としてではなく、野次馬根性で質問攻めにした。教員全般に言えることだが、いい年をしてものを知らない。
翔也は、やってられないという風に足を机の下に投げ出し、上体をパイプ椅子の背もたれにもたれかかっていた。
「あのね。これは大変なことですよ。人の話を聞く態度でないでしょ」
教頭は眉をハの字に下げて小馬鹿にした態度をとった。
「オレの話なんて聞いていないじゃないですか?無理やりなんてしていないし」
「紫音さんに暴力をふるったんでしょ?そんなことされたら怖くて嫌とは言えなくなるでしょ」
「だから、違います。他のヤツにも聞いていいです。紫音か誘ってきたんです。オレだけでないし」
「悪い事をしたら誠意をもって謝ることが基本だね。謝罪をどうするかだな。鈴木君の親も呼んでもいいかい。保護者としての責任もあるし。なんとかわかってもらえるように謝罪だね。うんうん。最終的には示談なのかな。法的なことはわからんけど」
教頭は一人で頷いて思案している。
何を言っても取り付く島もない。
「なんで決めつけるの?これだけで?」
「これだけでわかるから教頭になれたんです」
子ども相手に勝ち誇った顔を向けた。所詮、教員のレベルなんてこんなものだろう。若い時から教室という王国に君臨してきたのだから。生徒の言うことは聞くものではない。聞かせるものなのである。教育とは上意下達とする垂直社会なのだ。
教頭は足を組みなおして、両腕を前に組んでいた。すべて自己完結させたかのようだった。
落としどころをつけた教頭はおもむろに語りだした。
「なんか、喉が渇いたな。黙ってないでなんか言ったら」
もう翔也には反論する気も失せていた。
「警察でもどこでも言えば!オレは絶対にやっていない」
ついに、翔也からその一言がこぼれた。
「紫音と翔也のこと知っている?」
その日の午後、学校中が大騒ぎになったのは言うまでもなかった。人の口に戸は立てられないというように、この事件のことは学校中に知れることになった。
「アレでしょ」
「そう、アレ」
「なんかさ、アレ、ヤバイよね」
クラス中の生徒たちは老夫婦のような会話を得意げしている。アレって何?なんて尋ねるものはいない。アレとはもはやクラス共通用語なのだ。いつもいざこざが絶えない女子たちもこの日ばかりは紫音の悪口に迎合する。まさに共通の敵は結束を生み出すのである。
「翔也、停学になるんだって」
「なんで?紫音が悪いのに」
「うん、紫音が無理やりされたって言ったんだって」
「マジー」
「誰が違うって言ってやれよ」
「ヤダー、だって内申が悪くなるし」
「でもさ、紫音は馬鹿だもん。誰も信用しないよ。嘘ついているのすぐわかるよ」
「それなー、赤間だって紫音のこと嫌がっているよ。あいつのママヤバイし」
「ゲエー。でも、翔也以外にも関わっていたヤツいるよね」
「うん。たぶん、そいつのこともバレるよ。ずっと取調室にいるし」
「紫音、あいつヤバイよね。最悪だ」
「紫音、明日くるかな?」
「来るんじゃない?だって馬鹿だもん」
翌日、学校に登校した紫音の顔は心なしか元気がなさそうだった。昨日の警察での激論がそれを物語っていた。紫音は教室に近づくにつれ歩を緩めた。みんなが自分を怪訝そうに見ている気がしたからだ。
なんか気が重いし。行きたくない。みんなは昨日のこと知っているのだろうか?
思い出したくなくても昨日の警察での出来事が頭によぎる。紫音自身もこれほどの騒ぎになるとは正直思っていなかった。
紫音の両親は翔也の行った行為に対して激怒した。うちの子は何も悪くない!の一点張りで紫音の非を一切認めなかったのだ。あまつさえ翔也とその両親を告訴すると言い出した。
「うちの娘はまだ十四歳なんです。こんなことをされて許せない。告訴を取り下げるつもりなどありません。示談するつもりもありません。刑事事件にしてください。だいたい、脅迫して無理やり暴行したうえに裸の写真を撮るなんて…悪質過ぎます。十四歳の子どもだからという理由で済ませていいことでないです」
警察署の生活安全課の若い女性警官は温子の勢いに圧倒されていた。温子はまさに毒親だった。彼女が紫音に何か尋ねても、すぐ横で温子が口出してそれを訂正させた。
女性警官はこれでは温子の供述調書ではないか、と思うことがあったがもはや定石通りの言葉を添えることしかしなかった。だって、面倒だから。
「刑事事件にしたいといっても十四歳ですからね。家庭裁判所の審判になりますので。裁判になれば時間もかかりますし、紫音さんがさらに傷つきます。よく考えてください」
顔を上気させてまくし立てる温子をなだめるように話すが、温子は取り合わない構えを見せる。
「もちろん結構です。一生刑務所に入れていてもらいたいです。結婚前に傷物になって。娘がかわいそうで…」
女性警官はボールペンを手元に置いて、紫音のほうを向き直した。俯いている紫音に毅然とした声を掛けた。これが最後の通牒だといわんばかりに。
「紫音さん、告訴になったら言いづらいことも聞かれます。大丈夫ですか。今のうちに言っておきたいことはないですか」
温子は苛立った顔で割って入る。
「紫音、嘘なんかついていないわよね?」
紫音は喉に何かがつっかえたようなスッキリしない気がしていた。だが、温子の鋭い視線を感じると、そんな気持ちは失せ果てた。
「あたし…、嘘なんかついてません」
「そうよね。嘘をつくような子じゃないわ」
温子は目を細めて紫音を見ていた。
警察での事情聴収では、紫音は嘘を嘘で塗り固めるしかなかった。もう本当のことは誰にも言えなかった。自分のことをブスと言った翔也を懲らしめたかった、ただそれだけだった。
翔也は本当に少年院に入れられるのだろうか。いや、停学くらいだろうか。それとも転校もありか。あたし、わからない。でも、お母さんにばれなくてよかった。だから、これでいい。
刑事告訴されれば、予め準備して置かれたルールに乗っ取るだけだ。日本の司法システムでは刑事告訴されたら九九パーセントの確立で有罪となるのだから。
紫音は難しいことは何もわからなかった。母親に促されて警察の供述調書に署名した。
「おはよう」
教室の前でクラスメートの何人かに挨拶するが、だれも紫音と目を合わせなかった。紫音はただならぬ気配を感じた。教室の戸を恐る恐る開けるとすぐにその理由がわかった。
「しぃー。紫音やっぱ来たよ。よく来たね。」
クラスメートのささやき声が聞こえた。それは不気味なくらい無機質な声だった。
何?みんなやっぱ知っているの?
紫音はたじろいだ。無造作に前髪を触りながら、クラスメートの冷たい視線を無視して自席に向かうと、
「紫音、翔也はどうしたの?」
教室の後ろのほうから怒りがこもった低い声が聞こえた。翔也の友達の樹だ。
「えぇー。あたし、知らないし」
紫音はしれーと言いながら、視線を泳がせた。
クラスメートは屏風のように顔を並べて、紫音をちらりと見た。紫音は身の置き場がなくなるような感じがした。
あたし何も悪くない!
紫音は内心を押し殺して、声の主である樹を凝視した。樹は憮然として身を硬直させていた。
実は樹は紫音と関係をもっていた。当然、紫音と翔也のことは知っている。樹からすれば、翔也も自分も同じ穴の狢だった。紫音の嘘の次第では自分だって同じ目にあうと考えていた。
静まり返る教室で二人の視線が交差する。
翔也のことは気になる。それは友達として当然だった。紫音の言うようなことは絶対にない。だが、本当はそれを心配してるのではなかった。
紫音はオレのことはどこまで喋ったんだろうか?紫音は馬鹿だから覚えてないかもしれない。この場合は触れないほうがいいのだろうか。
だが、樹の好奇心はどうにも止められなかった。
樹は遠慮がちな口調で尋ねた。
「だって、きのう紫音と翔也たち先生に呼ばれてたじゃん?」
沈黙。
地雷を踏んでしまったか、と樹は思った。
クラス中が樹と紫音の言質をを見守っていた。沈黙を打ち破ったのは紫音だった。
「赤間にみんなに喋るなって言われてるし」
紫音は唇を突き出し、落ち着かなさげに髪の毛を指でくるくると触り始めた。
「翔也だけが悪いことになっているわけ?」
「それはそうよ。翔也は少年院に入れられるし。あー、これはここだけの話ね。クラスのみんなには喋るなって赤間に言われたし」
紫音は人差し指を口の前に当てた。だが、目は深刻そうには見えなかった。
「少年院!なんで?」
クラスメートたちが紫音のそばに駆け寄ってきた。皆、目には好奇な光を宿らせている。教室はチャイムが鳴ってもざわめいていた。
紫音は自分がクラスの人気者にでもなったかのように錯覚していた。自分のこれまでの人生には存在しないものだった。自分のやったことが急に誇らしく思えた。紫音は意気揚々に語り始めた。
「ごめんね、詳しくは言えないの」
手を顔の前でくねくねと振りながらあたりを見渡すと、みんなが聞き耳を立てて自分を見ていた。両手を合わせている人、口元に手を当てている人、机から身を乗り出している人、リアクションは様々だがみんなが注目していたことは間違いなかった。もったいぶればますますみんなから注目された。紫音は得意げに話を盛り始めた。
「本当にここだけの話にしてね」
言葉は自然にいくらでもでてきた。
「紫音、なんかすごいね!」
と、ポツリと聞こえてきた。クラスメートの表情に言葉以上の軽蔑が込められたいたことに紫音は気がつかなかった。
「もしもし、赤間です。あぁ、吉村先生」
吉村と連絡がとれたのは、午後十時を過ぎてからだった。
「北川紫音ね、やっぱりこうなったね」
「え」思わず赤間は声を漏らした。胸がざわざわとし落ち着かなくなった。スマホを持ち替えてを耳に強く押しあてた。
「彼女が通っていた高校に、大学の同級だった奴がいたからね。いろいろと噂は聞いていたけど。相変わらず男とばっかり遊んでいたらしいよ」
「どうして?」
「だって、女子には相手にされないよ。嫌われまくっていて。今時はSNSで過去のことでも拡散するからね。学校で男とやりまくっていて、バレたらレイプされたって男を警察に突き出したんだし。嘘ついて翔也を少年院に入れたことも知れ渡っていたらしいよ」
「そうですか。中学時代はそのことで紫音はクラスで孤立していて、本人も悩んだりしていたのだけれど。無視されたりするのは日常茶飯事のことだった。修学旅行や運動会などの学校行事は、みんなが紫音とは一緒になりたくないと言い、いつも揉めていたの。だから、うちの中学から誰も進学しない高校へ進学したはず…」
赤間にも予想できたことではあったが、実際に聞くとやはり辛いものがあった。
紫音は自分のやってのけたことを理解できているのだろうか?紫音はなんでも人のせいする子だった。それは大人になった今も同じなのだろうか? いや、変わることはできないだろう。だって、馬鹿は一生馬鹿だ。
人の本質は同じだ、と赤間は思っていた。それは吉村に対しても感じたことだった。吉村もやはり変わっていなかった。吉村は得意げに話を続けた。
「高校でも上手くいかなかったみたいだね。LINEの通話相手募集掲示板で男を漁っていたみたいだけど。事件の日もLINEで知り合った男と会っていたらしいし」
「その人が犯人かしら」
「うーん。わからないけど。僕はね、実のところ鈴木翔也じゃないかって思ったんだ」
「そうですか…。私もです。いまだに思うんです。あの話は矛盾だれけだったのに、それなのに少年院なんて。翔也は、二人の関係は合意であると訴え、謝罪も和解も拒んだため、家庭裁判所で少年審判された。その結果、翔也は中等少年院入院という判決が下った。担任だったのに私は何もできなかった」
赤間の懸念は的中したのだった。自分をはじめほとんどの者が現実から目を反らした。理由は面倒だから。そのことを後悔していると言いたかったが、吉村には言わなかった。
スマホの向こうの吉村の声の調子も変わったような気がした。
「うん。そうだったね。群馬の赤城少年院で面会した時はショックだったなあ」
「…。紫音はそれだけのことをしたのよ。何事もないかのように人生を送ることなんてできないのよ。人生は平等で公正。ちゃんと帳尻が合っているのだと思うの」
赤間は声に力を込めた。過去の自分を正当化したいという気持ちもあったからだ。
しばらくの沈黙のあと、とりなすように吉村が声を絞り出した。
「翔也はどうしているのかな?」
「少年院から受験して都立高校に入学したはず。でも、少年院でのことが原因でいじめにあったと聞いたけど。卒業したかどうかまではわからないわ」
「まさか、また紫音とつ付き合っていたりしないよね?」
「まさか」と赤間は唇をなめた。だが、紫音ならあり得る話だ。
「それはないとは言い切れないじゃない。だって、あいつら馬鹿だから」
不謹慎だと思いながら赤間も笑っていた。
「なんかさ、今の子どもってわからないですよね」
「それは言える。劣化しているね。うん、こうして地球は滅んでいくんだね」
「吉村先生でも真面目なこと考えるのですか。なんか意外でした」
「なんか僕、カッコイイね。ひゃはは」
「誰かいい男いないかな」
事件の前日、紫音は仕事をさぼって渋谷にいた。仕事といってもただのアルバイトだ。紫音は東京都内の高校卒業し、フリーターをしていた。もちろんなりたくてなった訳ではない。他に選択の余地がなかっただけだ。お金がなければ、手っ取り早く男でも探せばいい。
紫音はLINEの通話相手募集掲示板で適当な相手を探し始めていた。
遊ぶ男なんていくらでもいる。だってあたしは断らない女なのだ!
「きゃはー、愛輝」紫音はスマホを握るとポチポチLINEを操作した。
「愛輝、いつ会えるの?えー。なんで?あたし、隆一とはもうなんでもないよ。ホントだよ」
プツと通話が途切れた。紫音は舌打ちした。
愛輝と会いたかったのに。まあ、会える男を探せばいいだけだけどね。
一瞬指が止まったが、紫音は懲りずにLINEを操作した。すばやくポチポチすると、すぐに返信があった。名前を確認して思わず小さくガッツポーズをした。
「ヤバイ、潤くんからだ。キャハー。えー、今からじゃ夜になっちゃうよーん」
紫音は弾むような声で答えると、スカートをはためかせ雑踏の中へ走り出した。
この日、渋谷の街は西日でキラキラと輝いていた。
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