隙あり

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隙あり

「隙あり!」  紗椰が台所に行くと見せかけて、本棚に手を伸ばした。その行く手を、彰はバスケのディフェンスで培ったサイドステップで防ぐ。 「甘いわ」  目と目が合う二人。紗椰はジリジリと本棚との距離を縮めようとしている。目的は、彰の所有する小説とDVD、ゲームソフト。 「紗椰、諦めろ。こいつらは大した金にはならん」 「成らぬなら 成らせてみせよう えいりあん」  紗椰の目線の先には、独身時代に彰が購入したエイリアンのゲームソフトだった。中古でも比較的高値で売られていることを紗椰は事前に調べていた。 「仕事なら探してる。だから、頼むから俺のコレクションには手を出さんでくれ」 紗椰は口を尖らせて「アホー!」と言いながら台所に消えていった。  いつも通りのおふざけ。この日の紗椰はいつも通りの紗椰。だが、こんな天真爛漫で太陽のような紗椰でも、その光に隠された、小さな影を持っている。  紗椰は一型糖尿病を患っている。難病だが、上手く付き合えば自力で生活出来る。紗椰の場合は自力である程度血糖値のコントロールが出来る。人工透析が必要な人や失明した人など、生活に大きな支障が出るほどの合併症がない限り、障害年金を受給することは出来ない。紗椰は元々その制度に不満を持っていた。  紗椰は三ヶ月に一度通院している。主治医からは、本当は一ヶ月毎に来てほしいと言われているが、医療費を節約するためにそうしている。  血糖値を上手くコントロール出来ないと、合併症を併発するリスクは高くなる。併発すれば障害年金を受給出来る場合がある。 「私はさ、いつも丁寧な暮らしを心掛けてる。毎朝決まった時間に起きて、朝から晩まで大体決まった時間にご飯を食べて、その度に血糖値を測って、インスリンを打ってる。小さい頃からそれをやっているから私にとってはそれが当たり前。他の人が食後や寝る前に歯を磨いたりする事と同じくらい当たり前。それをやらないと死ぬっていうだけで、当たり前なことやねん」  雨が降った日の夜だった。ベッドの上で紗椰は珍しくこちらに背を向けたまま、静かに捲し立てた。 「不公平やん。普段の生活をだらしなく過ごして、“血糖値のコントロールが出来ませんでした”とか、“合併症を併発しちゃいました”とか。そうやってだらしない人が国から補償を受けて、真面目に血糖値をコントロールしてる私が何の補償も受けられないなんて。何も考えずに毎日を適当に過ごしてお金を貰える人が羨ましい」  紗椰は差別を受けたことがあるという。糖尿病は贅沢病だとか、不摂生だとか。  だらけた生活のせいで発症する人も確かにいるだろう。しかし、生活環境は必ずしも本人が変えれるわけではない。紗椰に関していえば一型糖尿病は発症原因が不明なので、そもそも不摂生の類ではなかった。  だから、紗椰には分かっているはずなのだ。血糖値をコントロール出来ない人の中には、本人の意思に反して規則正しい生活が送れない人だっている。紗椰が言っているのは、そういった人達に対する差別である。 「どうして私は、国から何もしてもらえないの」  それから紗椰は眠って、次の日にはいつもの調子で家事をしたりパートで働いたり、先ほどのように彰とふざけ合って笑うのだった。それ以降、紗椰が先の話題を口にすることはなかった。  人には隙がある。どんなに優しくても、誰かを責めないとやってられない日もあるのだ。  ならば、彰はどうだろうか。彰には、どんな隙があるだろうか。 「⋯⋯書いてみるか」  彰はノートパソコンの画面を、転職サイトからテキストエディタに切り替えた。  本音を書く。誇ることのできない本音。彰はあっという間に書き上げたそのエッセイを、Roomに投稿する前に一人の友人へ送信した。
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