第一章 3

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第一章 3

 足は無意識にはずれの丘へ向かっていた。村のはずれにある高台は、この村でただひとつのお気に入りの場所だった。たまらなくいらだつとき、ティセは必ずはずれの丘を目指した。誰もいないその場所で、心の疼きが治まるのを静かに待つために。  途中、何人かの同級生に会った。が、皆遠くから手を振るだけで、誰もティセに近寄ってはこない。それでいいとティセは思う、誰とも話したくはない、そして、誰も自分とは話したくないだろう。  と、背後から甲走った声がかかった。 「ティセ姉!」  ひとりだけいた。自分と話したくてしかたのない子供がいることを、ティセは思い出した。素っ頓狂な声で名を呼びながら、ナギは子犬みたいに駆けてきて、ティセの前へ飛び出した。 「ティセ姉、どこ行くの?」  真っ赤な頬を光らせて、なんの思慮も分別もなさそうな笑顔でティセを見上げる。泥だらけの服を着て青っぱなを垂らしたナギは、子犬というよりは小猿に似た初等部の暴れん坊、はっきり言ってしまえばティセの子分だ。 「べつに。散歩してるだけ」 「俺んち来ない? ティセ姉」  ナギの笑顔が期待で輝く。 「おまえんち? やだよ! 弟たちがギャーギャーうるせえもん」  すげなく返すと、ナギはあからさまにショボンとうなだれた。けれど、次の瞬間にはもう笑顔に戻り、好意に満ち溢れた瞳を向ける。脳天気、それ以外の言葉は浮かばない、ナギの開けっ広げな笑顔を見ると、ティセはいつでも溜め息が漏れそうになる。 「そうだ、ティセ姉、校長が……」 「探してたんだろ! 分かったよ、もう!」  八つ当たりのような怒鳴り声で返事をした。  ナギは顔をぽかんとさせたが、ティセは構わずに歩き出す。やはり、ナギはすぐに立ち直り、背後からまた素っ頓狂な声を上げる。 「ティセ姉、今度は遊びに来てね! 絶対だよー!」  ティセはなにも返さずに、ひとり溜め息をついた。いかにも子供らしい立ち直りの早さに呆れ返りつつも、それが心底うらやましくもあった。あんなふうであったなら、なにも悩むことなどないだろう。  はずれの丘へ登った。ナルジャでいちばん高いところだ。とくになにもない丘だが、ここからはナルジャの村が一望できる。  もっとも、村の全景を眺めることなど、ティセにとっては絶望を深めることと同じだ。自分を閉じ込めている檻を確認するのに等しいのだから。  それでも、この丘が唯一好きな場所であるのは、西側の斜面から、ときおり息を呑むほどの夕映えが眺められること、そして、ナルジャの道が地の果てまで延々と、どこか遠くへ続いているのを見ることができるからだった。  子供のころから、もう数え切れないほどこの丘へ登っている。かつては四人の仲間たちとふざけあいながら、いまではひとり黙々と斜面を上がる。  丘の上には土着の神を祀る古い祠が打ち捨てられたようにあるきりで、ほかにはなにもない。  西側に木々がまばらな箇所がある。ティセはまっすぐに立ち、気持ち唇を引いて、眼下に広がるナルジャの全景に挑むような目を向けた。  日暮れに近い、色の褪めた空の下、ゆるやかな起伏をもった緑豊かなナルジャが横たわる。ラフィヤカの家がある目抜き通りを中心に、民家が散在している。田畑は目抜き通りの商店街を取り囲み、延々と遠くまで続く。  隣町ジャールへ行けば、コンクリートで作られた高い建物があるが、ナルジャには二階建てより高い建物はない。目抜き通りにあるシータ教の寺院の尖塔がもっとも高い建物だ。  田畑や民家の間には、小川が編み目のごとく流れて、豊かな命を保証し、かつ象徴している。  どの家でも竈に火が入る時刻だ。そこここから白い煙が細く上がり、誰しもが温かい食事に恵まれることを示している。  これが、ティセの檻だった。  ナルジャの道の行く先を、ティセは見つめる。  あの道の先にはなにがあるのだろう、どんな景色があり、どんなひとびとがいて、どんな生活をしているのだろう。まだ見たことのない、まだ知らない、どんなものが隠されているのだろう。  道は確実に、ここではないどこかへ通じている。  ふいに、突風が吹いた。地平線の彼方からやってきた風を受け、ティセは目を閉じて深く息を吸う。未知なるものの匂いを探すかのように。その匂いを全身で受け止めるために、突風に身を任せる。  前髪が踊り、額が露わになる、こめかみを、うなじを吹き抜け、地肌を涼しくさせる。腿回りだけがゆったりと作られた薄茶色の脚衣(シャルワール)が激しくはためき、白い上衣の裾がひるがえる。詰め襟の上衣は洋装で母の縫製だ。  ティセの栗色の髪は短く、肩にもつかない。女は髪を長く伸ばすもの、ティセの短髪は常識から外れている、それだけで大人たちが眉をひそめる充分な理由になった。  ナルジャにも少しずつではあるが、洋装が浸透しつつある。けれど、もっぱら男たちの間に限り、女たちが洋装を纏うことがあるとすれば、晴れの日だけに許された。  伝統衣装である脚衣は男女に共通していても、その色合いにははっきりと性別がある。男たちは茶や鼠色といった落ち着いた色を、女たちは鮮やかな原色を用いて纏うのだ。  ティセの日常の身なりは男の格好であるといえた。実際、ティセは初対面のひとから女の子に見られたことが、まだいちどもなかった。  その涼しげな目元も、果敢さを余すことなく伝える直線的な双眉も、意志の強さを物語る締まった口元も、ティセを少年に見せるのに充分過ぎた。  目を閉じたまま、ただただ風に身を任せる。耳元で風が鳴る。涼やかな音色。とても気持ちがいい。  こうしていると、心のなかにある灰色の靄や厄介な棘が、風に蹴散らされ消えていくように感じられた。  そして、羽根のように軽くなり、本当に羽が生え、どこまでも飛んで行けるのではないかと、ティセは願うように思うのだ。  あの道の彼方に広がる、未知の世界まで――――  けれど、風が止み目を開ければ、そんな想像はただの幼稚な絵空事だと思い知らされる。変わることなくナルジャはそこにあり、心のなかの靄や棘も、ひとつとして消えることなく在り続けているのだ。  かつては、好奇心と憧憬だけを込めて無邪気に道の先を見つめられた。いまは、そのあとに押し寄せる失望に耐えかねて、ティセは草の上に倒れ込むのだった。  やわらかな風の吹く気持ちのいい日であったが、空の様子から、今日は素晴らしい夕映えは拝めそうもない、ティセはさらに失望を深くした。  草の上に仰向けになったまま、今度は死んだみたいに目を閉じた。そして、行き場の見つからない思いを、頭のなかにぶちまける。  俺はいつまでここにいるのだろう、いや、死ぬまでここにいるのだろう。この、なんの刺激もない片田舎の村に。隅から隅まで、もうすべてを知り尽くしたこの村に。  俺はこの村に何軒の家があるかを知っている。そこに住むひとびとの顔もすべて知っている。何頭の牛がこの村にいるか、何本の沙羅樹があるかさえ知っている。知らないことなどなにもない。  毎日毎日、同じ顔を見て、同じ一日をくり返す、延々とくり返す。糞みたいな日常に縛りつけられて、命果てるまでここで過ごすんだ。  息がつまって死にそうだ。いや、それなら死んだほうがましだ。ここはまるで牢獄だ、俺は牢獄に閉じ込められている、そして退屈を食べて生きている。  みんな、どうしてなにも思わないのだろう、どうしてなにも感じないのだろう。ラフィヤカ、カイヤ、プナク……、つまらないと口では言いながら、みんな毎日楽しそうにしている。どうしてそれができるのだろう。なぜ、俺にはできないのだろう……。  いや、分かってる。ここが牢獄なのは俺に非があるからだ。居心地が悪いのは罰だからだ。母さんに悪態をつき、ラフィヤカに冷たくあたり、カイヤたちを故意に遠ざけて。みんな、俺の態度に少しずつ傷ついている。  そんなことはとうに分かっていた。もう、終わりにしたい、ずっとそう思っている。だけど、どうしていいのか分からない……もう、分からなくなってしまった。  ティセは小さく呻いた。いくら思いをぶちまけても、行き場がないのだから澱のように溜まるだけ、気持ちが晴れることはない。灰色の靄はますます深く立ち込めていく。  中等部を卒業したら、どこか遠くへ出て行けるだろうか。そんな夢みたいな想像を、ついしてしまうことがあった。  たとえば、首都イリス。ティセは一度だけそこへ行ったことがある。八歳のころ、父の用事について行った。出不精の母を置いて、父とふたりでした生まれて初めての小旅行だ。  イリスは思い描いていた以上の、大変な大都会だった。眩暈がするほどひとがいて、誰もが皆きれいな衣服を身につけ、光を放っているかに見えた。薄汚れた服を着た自分も、高い建物に囲まれて道に迷う父も、ひどく田舎者に思えた。  そしてそこは、見たことのないものが溢れかえっていた。  ナルジャより広いと思うほど巨大な市場、世界中から集められた輸入品、外国人、異国の料理を供する食堂や屋台……どこまでも舗装された道には路面電車が走り、街灯が灯されていた。  イリス到着から出発まで、幼いティセは目を瞠り続けた。その小さな胸は、壊れてしまうのではないかと心配になるほど高鳴り続けた。村からイリスまで三日、滞在二日、帰り道にまた三日、短い旅ではあったが、父としたその旅は、ティセの人生で一等楽しい思い出になっている。  かといって、イリスに出たいわけではない。どこでも構わない、ナルジャ、あるいは隣町ジャールでなければどこでもいいのだ。  この檻の外へ出て、まだ見たことのないものを見てみたい。知らない景色、知らない人間、もしかしたら、知らない自分さえ見出すことができるかもしれないと、ティセは思う。  実際のところ、夢は夢でしかない。どこか別の場所で暮らすにしても、旅へ出るにしても、母が許すはずはない。  母だけではない、ナルジャのひとびとが――――世間の目が許すはずがないのだ。いうまでもなく、ティセが女の子であるから、だから許されない。  もしも男であったら、違う町で暮らしてみたい、ただそれだけの理由で出て行くこともできるはず、父の若いころのように、遠くへ旅することさえできるはず。けれど、女であるティセには、その可能性はないに等しい。  何故、自分は男の子に生まれなかったのだろう、ティセは泣き叫びたいほど悔しく思う。心が男であるわけではなかったが、道の行く先に思いを馳せるティセは、女の子である事実を呪っていた。  父がいたら、少し違っていただろう。 「中等部へ上がったら、休みを利用して隣の国にでも行ってみようか」 「中等部を卒業したら、どこか遠くまで出かけてみようか」。  父はよく、ティセにそんなことを言っていた。  心配性の母は、とんでもない、と怖い顔をして怒ったが、父は愛娘にもっと広い世界を見せてやりたいと、感動や高揚感をともに分かち合いたいと、心から思っていたようだった。  大好きな父と旅に出るのを、ティセも夢みていた。夢を残して、父は逝ってしまった。稲穂輝く、十一歳の秋の日に。  仰向けのまま、空へ吐き出すように大きく息を吐く。外へ出たい、この村の外へ出たい、ティセの全身が、そう叫んでいた。  ふいに、笛の()に似た音が聞こえた。ティセは目を開ける。  ほんの一瞬、なにかの弾みで音を出したかのように聞こえただけで、すぐに消えてしまった。笛かどうかは分からない、擦弦楽器のようでもあり、ただ風が鳴った音にも聞こえた。  そう遠くない場所からだろう。近くに誰かいるのかもしれない。  半身を起こし、辺りを見回す。雑木の枝が風に揺れているだけで人影はない。ややあってから、もういちど音が聞こえてきた。先ほどより長く、ゆるやかに。風が鳴ったのではなく、あきらかに楽器の音だと今度は分かった。 「なんだろう……」  祭りや結婚式の際に奏でられるどの楽器とも違う、初めて耳にする音だった。にも拘わらず、何故か懐かしい音のようにも聴こえる。  音源を確かめたくて、草の上から立ち上がった。村びとの誰とも会いたくないティセは、音のした方へ静かに歩を進めていった。  木々の間をすり抜け、大きな蟻塚の前から南側の斜面へと回る。ひとが踏みしめてなんとか通れるようになった小道を、蜘蛛の巣を払いながらそうっと降りた。  やがて、道は丘の麓にある休耕地へ辿り着く。そこにある沙羅の大木の下に、同年代とおぼしき少年がひとり腰を下ろしているのが見えた。  どきり、ティセは心臓が跳ね上がった。少年は、ティセが降りてくるのに気づいていたようだ。ティセがその姿を認めたときには、もうまっすぐにティセを捉え、身じろぎもしなかった。  驚いたのはいきなり目が合ったからだけではない。少年がこの村のひとではなかったからだ。どころか、その風貌をひと目見れば分かる、余所者というより、異国のひとだ。この辺りではほとんど目にしない、浅黒い肌をしていた。
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