第一章 1

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第一章 1

 はるか遠く、万年雪をいただく神々の山から、春の訪れとともに雪融け水が流れてくる。遠い道のりを健気に旅した清らかな水がイリアの地を、ナルジャの田畑を潤す。緑が色濃く力づき、花々は唄い始める。春を唄い始める。  朝晩の冷え込みは残っていても、昼の日差しはもう夏を予感させ、風はほのかに初夏の香りをのせている。  ――――やわらかな風の吹く、気持ちのいい日だった。     *    *  仕立てたばかりの晴れ着を纏まったラフィヤカが、先ほどから手持ちの装身具を総動員して楽しそうに困り果てていた。 ティセは床に座り、手鏡を向けてやりながら、そのじつ何の関心もない。土間の向こう、開け放たれた戸口の外を眺めて過ごしていた。  そこになにか興味を引くものがあるわけではない。けれど、放し飼いの鶏が地面をしきりについばんでいる、その様子を見ているほうが、ラフィヤカの話よりはまだおもしろかった。  ちっとも相談相手にならないティセに、ラフィヤカは声を尖らせる。 「ねえ、ティセ、聞いてるの? ちゃんと考えてよ!」  今日、三回目の台詞だ。ラフィヤカの魅力である小生意気そうな目が、不満のために若干吊り上がっている。それを見ると、ティセは煩わしさがいっそう増した。投げやりに答えれば逆効果だと分かってはいた。が、ティセはつい本音を漏らす。 「なんでもいいじゃん」 「よくないから相談してるんじゃない! せっかくおばさまに作ってもらったんだもの、最高に可愛くして行きたいのよ」 「毎度ありぃ」 「もうっ! ティセ!!」  来週開催される、隣町の中等部との校友会に身に着けていく衣装のことで、ラフィヤカは悩んでいるのだ。あの手この手で金を工面して、自宅で仕立屋をしているティセの母親に頼んで晴れ着を新調した。それに合う装身具のことで、ティセは相談を受けている。  ティセが掲げる手鏡の前で、首飾りを替えたり、耳飾りを替えたり、腕輪をはめ替えたり。絹に似た自慢の黒髪をさまざまに結い変えて、その都度「どう?」とティセへ尋ねる。  晴れ着は少女たちの憧れである洋装であったし、もともと顔立ちの可愛いラフィヤカが身に着ければ、校友会ではさぞ目立つだろうと、ティセにも想像はできた。けれど、はっきり言うとどうでもいい。何故こんなことで懸命に悩めるのか、まったく理解できない。ティセは上を向いて大きな欠伸をひとつした。  ラフィヤカは口を尖らせつつも、退屈しているティセのために何杯目かの茶を用意する。新しい服に染みをつけないよう細心の注意を払い、ゆっくりとした手つきで薬缶の茶を硝子の湯呑みに注ぐ。 「……ねえ。ティセも来週来ない? 校友会」 「行くわけないだろ」  ティセは即答した。長年にわたり開催されている校友会はちょっとした祭りのようなもので、ナルジャでも隣町でも少年少女の関心事のひとつになっている。中等部の生徒なら誰でも参加は自由だ。毎年、初等部や高等部の生徒も少なからず参加し、おおいに賑わっている。  ティセも初等部時代には顔を出してみたことがあったが、いまは少しも興味がない。 「楽しいわよ」 「楽しくねえよ。それに……俺が行ったら、怖がられる」 「そんなことないわよ。そんなの、あんたの思い込み!」  ラフィヤカはそう反論するけれど、自分に対する周りの評価をティセはよく知っている。ましてや、隣町の中等部における評判など、これ以上ないほど悪いだろうことも。  ラフィヤカは引き下がらず、両手で湯呑みを包んだまま、甘えるような上目遣いでティセの黒い目を覗き込む。 「じゃあさ、カイヤも行くって言ったら、行く?」 「ばーか。あいつが行くわけないだろ」  それにもしカイヤが行くと言っても俺は行かない、ティセは頭のなかで言った。自分を校友会へ連れ出すためにカイヤを説得する気なのだろうか、何故そこまで……と考えて、ティセは、はたと気がついた。 「……校長がなんか言ったの?」  ラフィヤカは視線を外し、 「別になにも! ……ただ、あんたのこと心配してたから」  やっぱり、とティセが溜め息をつくと、ラフィヤカはふてたような顔をして再度ティセに目を向けた。おせっかい焼きの校長が、孤立しがちな問題児をなんとかしようと策を講じているわけだ、そう気づいたティセは不快感をありありと顔に表した。ラフィヤカは慌てたように言う。 「校長に言われたから誘ってるんじゃないわよ。私、あんたに踊りの相手になってもらいたいんだもの」 「は!?」  ティセは耳を疑った。 「だって、他の子と踊るのいやなんだもの。ティセじゃなきゃやなの。知ってるでしょ、私、男の子だいっ嫌い!」  いったい何のための校友会なのか、誰に見せたくて着飾るのか、呆れ果てたティセはラフィヤカの相手をする気力を完全に失った。栗色の短髪をかき混ぜるようにボリボリと頭を掻いて、茶をひと息に流し込む。「帰る」と床から立ち上がった。 「あ、ちょっと。まだ終わってない」  ティセは振り返り、 「ラフィヤカ。俺は最初にいいって言ったやつが一番いいと思う。じゃな」  適当な返事をして土間に降り、さっさと革靴を引っかけた。  ラフィヤカの家は小さな商店を営んでいる。土間は店に続いていて、木箱、あるいは麻袋に入った野菜や豆、色とりどりの調味料などが所狭しと並んでいる。ラフィヤカの母親が、品物になかば埋もれるようになりながら店番をしていた。  ティセを見ると、繕いものの手を止めて、 「あら、もうお帰り? あんたの母さんによろしく言っといてね」  売れ残りのようなニンジンを数本縛ってくれた。  似たような小さな商店が並ぶ通りを抜けると、道はなだらかな上り坂になる。両脇は林だ。ここしばらく雨が降っていたので、舗装をしていないナルジャの道々はほどよい湿り気を帯びていた。  日差しを浴びて温められた大地から土の匂いが上がり、家畜の糞尿の匂いと混ざり合い村中に満ちている。田舎の匂いだ、とティセは思う。そして、この匂いに閉じ込められている、と。  前方から牛車が降りてきた。黒牛に引かれた荷車には、堅物で有名な老夫と曾孫である幼女が乗っている。  ティセが脇によけると、ゆっくりと過ぎる間中、老夫は白髪交じりの長い眉毛の下で目を険しくさせて、ティセをじっと睨みつけていた。  老夫とは目を合わさず、非難めいたその視線をたっぷりと横顔で受けた。これが俺の評価だ、でももう馴れてしまった、ティセは鼻だけで軽く溜め息をつく。  坂道を登り切ると、眼下には田畑が広がり、その合間にぽつぽつと人家が見える。木材と土、あるいは煉瓦で建てられた家々は、この時期、庭に咲いた菜の花に彩られる。  田植え前の田圃は豊かに水が張られ、大地の鏡として青い大空を映し込む。村の果て、果ての森まで水田は続く。  空には雲が白く輝き、はるか北方へ目を遣れば、万年雪をいただく神々の山が厳かに連なっている。木々も、あぜ道の雑草も、青く染まった。もうすぐ一斉に、たんぽぽの綿毛がやわらかな風に飛ぶ。  ティセは足を止め、広がる田畑を漫然と眺めた。十四年、毎日見ているなにも変わらない景色、見慣れ見飽きて、反吐が出るような日常の景色をだ。  首都イリスのような大都会に住む人ならば、ナルジャの風景に感歎の声を上げるのだろう。  たんぽぽの綿毛が陽光を浴びてきらきらと群れ飛ぶさまも、夏には青々と波打ち、秋には金色に輝く稲穂の絨毯も、確かに美しい。  けれど、それだけだ、ティセの心を打ち震わせることはない。ティセにとっては、残酷なまでに変わらないナルジャの景色を眺めて暮らすのは、苦痛を深めていくことと同じだった。  代掻きをする牛やロバが、水田のなかをのろのろと這っていく。ときおり、思い出したように大声で鳴く。あいつらも日常に絶望して喚いてる……ティセの耳にはそう聞こえるのだった。 「おーい、ティセ」  来た道から、名を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、四人の友人が横一列になり、ゆるやかな坂をのんびりと上がってくるのが見えた。景色と同じくらい見慣れた、退屈な顔だ。  ティセは少しだけ憂鬱になった。返事もせずに立ち去るのはさすがに気が引けたので、しかたなく四人を待つ。  出っ歯のプナクが白い歯をむき出して尋ねる。 「ティセ、なにしてんだよ」 「帰るとこ」  吊り目のラッカズが笑う。 「分かった。ラフィヤカんとこ行ってたんだろ」 「そう」  小太りのスストが身体を揺らす。 「俺たちこれからラハ兄んとこ行くんだ。ティセも行こうよ。久しぶりだろ、ラハ兄。いま帰ってきてるんだぜ」  数年前に入隊した兄貴分が休暇で帰省しているのはティセも知っていた。四人は軍隊の話を聞きに行くのだ。初等部のころなら、ティセが率先して仲間を誘っただろう。  けれど、軍隊の話も、すっかり逞しくなっただろう兄貴分に会うことも、仲間たちと時間を共有することも、いまのティセには煩わしかった。それらは、自分を憂鬱な気持ちにさせるだけなのだと、とうに気づいていた。  仲間たちの顔を見もせずに、 「俺はいい、帰るよ。ラハ兄によろしく言っといて」  あっさり返すと、四人はあきらかに落胆した。先ほどのラフィヤカと同じく、不満げな顔つきをしてティセを見る。心がわずかに痛んだが、「じゃ」と片手を上げた。  足早に去ろうとするティセを、カイヤが呼び止める。 「ティセ!」  無言でカイヤを振り返る。カイヤは言葉を選んでいるかのように、薄い唇をもごもごさせて間を置いた。刺激しないよう気遣われているのだとすぐに分かった。そして、なにを言われるのかも分かってしまった。 「……ティセ、校長と話したか?」 「……いや」  カイヤはにきび面にやんわりと笑みを浮かべ、いかにもただ事実を告げるだけ、といった口調で、 「昨日も今日も、おまえのこと探してた」 「ふうん、そ」  それだけ言って、ティセは逃げるように立ち去った。行く方向は同じなので自然、早足になる。四人の視線を背中に痛いほど感じながら、遣り切れない思いで道を急いだ。
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