第八章 猶予う凪の波間にて

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私は深々と頷き、そして(おもむろ)に言葉を返す。 「其処(そこ)よ。 其許(そこもと)の申す通り、(くだん)の者は『時量(ときはかし)』の血に連なる者よ、我らと同じくな。 其故(それゆえ)(われ)が貸し与えた力を使いこなし、(あまつ)さえ『刻視(ときみ)』すら為したのだ。 『刻視(ときみ)』の力と申せども、それは未だ萌芽にしか過ぎぬがな」 息を呑み込むかのような気配が伝わって来た。 我等を取り巻く空気が張り詰めつつあるように感じられた。 「矢張り…。 (くだん)の者は…、『刻視(ときみ)』を為していたのですね」 戸惑いを湛えたその声に対し、私は言葉を返さぬままに頷く。 そう、『刻視(ときみ)』の力を用いれば、起こり得る未来を視ることが出来る。 あの『禍月(まがつき)の刻』の中、(くだん)の者は『刻視(ときみ)』の力を顕現させ、そして近き将来に起こり得る事柄を視たのであろう。 それは、恐らくは琴羽が酷く(なぶ)られる情景だったのではないだろうか。 禍々しい虫の如き姿を為していたあの『禍月(まがつき)(しもべ)』に琴羽が絡め取られ、そして(むご)き様となっていたのであろう。 それは数多存在する将来の可能性のうちで最も忌むべきものであり、(くだん)の者の中に在る『時量(ときはかし)』の力が発憤させるべく敢えて見せた情景であったのだろう。 (もっと)も、(くだん)の者の助太刀など在らずとも、あの程度の相手ならば琴羽は危なげも無く討ち滅ぼしていたであろう。 些か手間は要したのかもしれぬが。 私は改めて嘆息する。 胸中に(わだかま)る驚きや戸惑い、それらが(おの)ずから這い出したかの如き嘆息であった。 私は胸中にてこう独りごちる あの『(たちばな)』なる者は…、『時量(ときはかし)』の血に連なる者なのか。 斯様(かよう)な者が琴羽の間近に現れようとは。 奇縁と言うべきなのか、それとも宿縁と考えるべきなのか。 琴羽は『(たちばな)』が『時量(ときはかし)』の者であることに気が付いていたのだろう。 その日の昼間、『禍月(まがつき)の夢』の中にて彼が己を保っていたことで。 いや…、恐らく琴羽は前々から、薄らとながら勘付いていたに相違あるまい。 それ故、それとなく『(たちばな)』の様子を窺っていたのだろう。 先程、漏れ聞こえて来た会話の中でも斯様(かよう)なことを(ほの)めかしていたようであった…。 そして、琴羽は『(たちばな)』に関心もまた抱いているようだ。 その関心の理由は『時量(ときはかし)』であるが故なのか、それとも異なる所以なのかは判然とせぬが。 私がつい先程まで恋々と現世(うつしよ)の様を覗き見ていたのも、それが気になるからなのやも知れぬ。 私は再び嘆息する。 宙を仰ぎ、そしてこう呟く。 「千年(ちとせ)に渡る我らが宿縁。 千年(ちとせ)に渡る凪の刻。 愈々、その凪が波立つ刻が来たのやも知れぬな……」 それは恰も己自身に言い聞かせるようであり、そして己が願いをも含んでいるようかのようであった。 その呟きに答えるようにして、浪々とした声が響き渡る。 「現世(うつしよ)幽世(かくりよ)との狭間。 其処(そこ)に在る『時隔の城』にて変わらぬ日々を只管に繰り返す我等。 其処に縛られ現世(うつしよ)を只管に観るのみの我等。 それは、(さなが)ら凪の水面に姿を映す月の如きものなのでしょう。 それは、我等が血族に課せられた呪いなので御座いましょう。 然れど……」 俯いた私の脳裏に様々な思いが去来する。 私が現世(うつしよ)幽世(かくりよ)との狭間に在るこの世界へと逃れ来てから何時しか千年もの刻が過ぎ去ってしまった。 老いることも無く、そして死ぬことすらも出来ぬ、後悔の念と罪の意識とが膨らみ行くだけの歳月であった。 これは我等が血族への呪いであり、罰でもあるのだ。 そして。 千年の刻を経ようとも、あの『禍月(まがつき)』の陰に潜む者共は、その企みを諦めようとしてはおらぬのだ。 我等が血族が負いし罪。 それは(すす)がれる事など無く、あろう事か未だに膨らみ続けているのだ。 そして。 血族の宿縁へとコトハを巻き込んでしまったこと。 千年に渡る因果に彼女を縛り付けていること。 それは私にとって何よりも痛痒なることなのだ。 心中にて嘆息した私はこう自問自答する。 果たして何時になれば、そして如何にすれば彼女をこの縛めから解き放つことが出来るのだろうか、と。 つい先程に見た、瑞々しき緑の中での微笑みが思い返される。 それは、私の心に(くすぶ)り続ける罪の意識を明瞭なものとする。 何時しか私は己が拳を強く握り締めていた。 握り締めたその拳をふわりとした気配が覆う。 恰も柔らかな絹布のようにして。 まるで宥めるかのようにして。 耳元にて声が響く。 「黒曜(こくよう)様…、斯様(かよう)にご自身をお責めなさいますな。 我等がこの城に在り続け、この城を護り続け、そして来たるべき刻への備えを為し続けること。 それこそが、何よりの罪滅ぼしにて御座います。 そのことこそが、コトハ様を救う(みち)にて御座います。 何時の日か、必ずやコトハ様も…」 それは、柔らかで労るような声音であった。 然れど、深々たる哀しみの気配もまた纏っていた。 この『時隔の城』にて私に従い、そして私を支えてくれるもの。 それは、この声の主だけなのだ。 それは有り難くもあり、そして哀しくもあり。 白蓮(びゃくれん)。 この彼女とて我等が血族の宿縁に狂わされし者。 然れど、その心中に在る筈の痛痒など微塵も見せることなく我に付き従ってくれている。 その心根もまた、私が抱く罪の意識を明瞭なものとするのだ。 白蓮(びゃくれん)の声が響く。 それは切々たる思いを忍ばせているかのように感じられた。 「この私めは、何時までも貴方様と共に在ります。 どうか…、どうぞご安心召されませ」 我が血族の罪は(あが)われなければならぬ。 悪しき企ても終わらされねばならぬ。 そして、コトハも白蓮(びゃくれん)も正しき宿縁に戻さねばならぬ。 この私の魂魄を賭してでも。 あの『(たちばな)』なる者の出現が、この永く忌まわしき宿縁を終わらせる契機となれば良いのだが。 つい先程まで目にしていた艶やかなる緑が瞼の裏にて蘇る。 それは、命に満ちたかの如き輝くような緑であった。 そうか。 琴羽も、そして『(たちばな)』も皐月の中に在るのか。 瑞々しき緑の季節、それが因果の幕引きの始まりとなれば良いのだが。 これは皐月から始まる物語。 永きに渡る凪の終わりの物語。 【第1章 完】
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