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3年後。
老朽化した物件をリノベーションした店舗が並ぶ商店街。元は鮮魚屋だった店舗は落ち着きのあるブックカフェになっている。客席が7席のこぢんまりとした店だ。会社を定年退職した世代が主な常連さん。ごくたまに大学生くらいの若い子が1人でふらっと来たりする。お茶を飲みながら1日中ゆっくり過ごせる場所。誰かのほんのひと時の逃げ場所。昔からそんな場所があったらいいなと思っていた。陸の不動産会社が管理する今の店舗に空きが出たのを知った時、頭の片隅に置き忘れていた思いがふつふつと蘇った。ので、思い切って自分でそんな場所を作ってみた。店を開いて1年が経過したけれど、当初の試算通り経営状況はカツカツだ。けど、好きで始めた仕事だからスーパーのパートと掛け持ちしながら細々と続けている。今の所、野垂れ死にせずに生活出来ているし。なんとかなっている。
店の休憩時間にキッチンで遅い昼ご飯を食べていたら、裏口から天馬がひょいと顔を覗かせた。
「こっち戻ってたんだ、天馬」
「さっき出張から戻ってきたばっかり。はいこれお土産」
「ありがと」
「それじゃ、またね」
お土産だけ渡すとすぐに帰った。天馬は以前から携わっている地方創生プロジェクトの主任になった。忙しいながらも充実しているようだ。
食べている途中だった昼ご飯の焼き魚をつつく。これって柊が捕った魚だったりして。な訳ないか。少し前に天馬から柊と一緒に撮った写真を見せてもらったけど、漁師をしている柊はすっかり日焼けして一瞬誰かわからなかった。
昨年の私の誕生日に何年も会っていない父からひょっこり連絡が来た。不倫相手とは別れたようだけど、父は父で元気で過ごしているみたい。
その後も母の体調が回復する事はなかった。ある時、母が私の事を職場の新入社員と思い込んでいたので慌てて病院に連れて行ったら過去に軽度の脳梗塞を起こしていた事が判明した。長い間ぼぅーっとしていたのもその後遺症だったようだ。予約待ちをしていた施設にようやく空きが出て、2年程前から入所している。見舞いに行く度に同じ施設に入所しているおじ様から口説かれて迷惑だと言うがまんざらでもないようだ。
あ、昔話に浸っている場合じゃない。急いで店の仕事を終わらせなきゃ。
「山田さん、キッチンの片付けはやってあるのであとはよろしくお願いします。今日はシフト変わってくれてありがとう」
「困った時はお互い様よ。私も無理な時は無理って言うから。それより時間大丈夫なの?」
もうこんな時間。早く実家に行かなきゃ。
沙羅が1人で暮らしている実家。リビングのテーブルには沙羅が珍しく早起きして買ってきた花がセンス良く花瓶に生けられている。雑然としているリビングだがテーブル周りだけは綺麗に整頓されている。それが花の美しさを異様に際立たせている。
「編集者さんまだかしら」
お気に入りブランドの新作ワンピースを身に纏った沙羅がそわそわ落ち着かない。自身がモデルをしているファッション雑誌の編集者を待っているのだ。
ピンポーン。
「あ、いらした。透子お出迎えして」
編集者をリビングに案内した後、台所へ向かい紅茶を淹れる。沙羅がこの日の為にお取り寄せした高級茶だ。トレーに乗せた紅茶がこぼれないようゆっくり歩きながらリビングへ向かった。
「沙羅さん、素敵なワンピースですね。お似合いです」
打ち合わせはいつも雑談から始まる。
「どうも」
沙羅が大人っぽさの加わった落ち着いた笑顔を見せる。
「何か変わった事はありましたか?」
「少し太ってしまったから次の撮影までにダイエットしようと思っているの」
「そんな事ないですよ。今ぐらいの体型が素敵ですよ」
「そうかしら」
沙羅は不満を装いながらも口元は嬉しさを隠しきれていない。紅茶を出し終えた私は席を外した。
「透子、打ち合わせ終わったから編集者さんを玄関までお見送りして頂戴」
【打ち合わせ】を一通り終えたようだ。ソファに腰掛けたままの沙羅が紅茶を啜りながら優雅に命令する。私は【編集者】を玄関に案内した。
「お姉さん、若干妄想はありますが、落ち着いているようですね」
「最近は天気がいい日が多いからか、機嫌いいみたい」
「来月は精神障がい手帳の更新時期だから手続き忘れずにお願いします。あ、そうだ透子、来週は子供の保育園の運動会があるから私は訪問看護に来られないの。別の看護師が来る予定だから」
「わかった。いつもありがとう、杏樹」
「仕事ですから」
嫌味のない営業スマイルが板についている。
「じゃあ、またね。ばいばい。莉子ちゃんによろしく」
杏樹に小さく手を振る。
「ばいばい」
杏樹は満面の笑みで帰って行った。
「透子、きちんと失礼なくお見送りした?」
「うん。来週は別の人が来るって」
「そう。おもてなしは何がいいかしら。サロンで教わったフルーツタルトを焼いて、アロマも用意しなくっちゃ」
来週まで沙羅の頭は代替でやって来る【編集者】をどうおもてなしするかでいっぱいだ。
「私がモデルを続けられるのも透子が陰でサポートしてくれているお陰よ。感謝しているわ」
急にしんみりモードになった沙羅が言う。こんな感じでごくたまにしおらしい事を言う。
「あ、それ片付けてといてね」
沙羅は空になったティーカップセットを指差し、鼻歌まじりにリビングを出て行った。先週はその言葉すらなくカップを放置していた。今日はまだましな方だ。私はカップを洗い終え、家中の掃除に取り掛かった。次に冷蔵庫の中身をチェックする。私が先週作り置きしておいた総菜の匂いを嗅いで、痛んだやつをポリ袋に詰めて捨てる。溜まっていたゴミ袋を回収場所にだす。洗濯機のスイッチを入れた後、干しっぱなしでカラッカラに乾いた大量の洗濯物を取り込んで畳む。その間、沙羅は部屋に籠り、ルーティンワークのエクササイズに夢中だ。
「沙羅、私もう帰るから。また来週来るけど何かあったらいつでも連絡してね」
一通りの家事を終えた私は、沙羅の部屋のドア越しに声を掛けた。
「うるさいっ。邪魔するな」
おぉ、怖っ。女王様がお怒りだ。さっさと帰って家の洗濯やろう。
今も時折、沙羅の言動にイラついたり、古傷が疼いたりする。けれど、どれだけもがいても抗っても、なるようにしかならない事もある。
首を絞めて殺してやりたいと思った次の瞬間、心から愛おしいと思ったりもする。それでいい。愛情も憎しみもぐるぐる混ざったままでいい。ごちゃ混ぜの感情が目の前を通り過ぎるのを日々眺めながら、私は今日もここで沙羅と生きている。
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