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 午後十時過ぎに帰宅したおれは、兄ちゃんがリビングダイニングのソファの上で、ぐったりしているのを見つけた。  駆け寄ると、手首が血で濡れている。ソファにも血痕が飛び散り、床には血だまりができていた。血の付いた包丁が落ちていた。  鉄の臭いがする。 「兄ちゃん……、兄ちゃんっ」  叫んで、救急を、とスマホを探す。手が震えて、119が思いだせなくて、スマホ画面の「緊急通報」も目に入らず、おれは血だまりの中でどうしていたのか記憶がない。  気がつくと兄ちゃんが顔を上げて、「大丈夫だから」って言っていた。 「ごめんね、たー君。ごめんね」 「兄ちゃん……。大丈夫か? おれこそごめん。兄ちゃん、しんどかったんだな。なにもわかってやれなくてごめん」  泣くおれを、女神様みたいに見つめる兄ちゃん。その腕が、そっとおれの体を抱いた。 「大丈夫。血はいっぱい出たけど、深い傷じゃないと思うから」 「ほんとに? 大丈夫? あとで死なない?」  そんなことになったら生きていけない。泣くと、兄ちゃんは「うん」とだけ言った。  起きあがろうとしてふらついて、おれの体につかまる。  おれは「やっぱり、病院」と言ったけど、兄ちゃんは、それは嫌そうだった。  それで、家にあるもので手当てした。  包帯を巻くころには、傷口ももう乾いていることがわかって、少しほっとした。でも、やっぱり病院には連れていきたい。おれは諦めきれず、 「なあ兄ちゃん、やっぱ病院、行こ」  と誘う。兄ちゃんは虚ろな目でどこかを見ていた。  そのとき、思ったんだ。  マッチングアプリに登録したのも、お店の動画に出たのも。全部全部、焦りが募ったからじゃないか、って。  兄ちゃんはなにかを変えたかった。闘ったんだ。そして、力尽きた。 「たー君」  ぽつりと、兄ちゃんが言った。 「たー君、抱いて」  おれは耳を疑った。……けど、そういう意味じゃない。これはそういう意味じゃないんだ。  ぎゅっと兄ちゃんの肩を抱くと、兄ちゃんは包帯を巻いた手首で目を押さえて、「うっ」と嗚咽を漏らした。  兄ちゃん、おれ、なんもわかってなかったよ。  兄ちゃんが歩きはじめたとばかり思っていて。  兄ちゃんが歩いていた方角には崖があったんだね。 「ごめんな、兄ちゃん」  痩せた体を抱きしめて謝った。
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