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milk ver・同棲後
「クリスマスだね」
今月に入って何度目かの呟き。街を歩いても、自宅でテレビを見ていても、どこもかしこもがクリスマス一色なのだから、ついついそんな発言をしてしまう時期だ。玉城は悠太朗の呟きに電球で装飾された並木を見て、納得の声を洩らした。
「道理で街中にカップルが多い」
そう言った玉城の視線の先には、高校生らしき制服の男女。裏通りの階段を使ってジャンケンの音頭を取り、グリコのゲームをする姿があった。その青さは大人の二人にはあまりに眩しい。悠太朗はイブも当日も相変わらず仕事だし、冬休みやサンタクロースだってもう何年も前からいない。子供の頃は好きだったはずの季節が、いつの間にかありふれた一日になってしまった。
(別に僕だけの話でもないけど…)
そんな聞き分けのいい大人のふりをして到着したマンションの一階で、二人は出かける時にはなかった張り紙と対峙する。
「四階まで階段か」
エレベーターのドアに貼られた、点検中のコピー用紙に悠太朗は独り言つ。仕方がないのは分かっているけれど、四階まで階段を使用しなければならない状況が億劫でないかと言われると、決してそんなことはない。大人しく階段に足を向けた玉城は、徐に振り返ると握った拳を間に置いた。悠太朗も最初は彼が何をしたいのか分からなかったが、間も無くして先程見かけた学生のカップルを思い出す。
「これって若い子がやるから可愛げが…」
「いきますよ。最初はぐー、じゃんけん、ぽんっ!」
渋る言葉を遮った掛け声に、悠太朗は条件反射で拳を出した。それに対して玉城は手を広げている。
「よし、俺の勝ち」
「今の狡くない?」
「なんとでもー。因みに負けた方が夕飯の片付け担当ね」
「はぁ?!」
玉城は不敵な笑みを浮かべ、軽やかに階段を六段上がった。
「次いきますよ」
玉城の前置きに、悠太朗は次こそはと意気込み手を出す。じゃんけんをして勝ち負けが決まって、階段を上るだけの単純な遊び。最後にやったのが何年前かさっぱり覚えていない。二人は十二月の寒さも忘れ、懐かしい感覚に夢中でじゃんけんを繰り返した。
「ねぇ、悠太朗さんじゃんけん弱い」
暫くして、憐れむような声色が悠太朗を見下ろした。二人の部屋がある四階のフロアに到着した玉城に対し、悠太朗はまだ二階と三階の途中にいる。これは言い訳のしようもなく勝敗が決定。夕食後に悠太朗がキッチンで洗い物をする最中、玉城はコタツに寝転がり寛いでいた。
「コーヒー淹れるけど君もいる?」
「いいの?欲しー」
至れり尽くせりな状態に玉城の声が分かりやすく上機嫌で、悠太朗は密かにほくそ笑む。今日買って来たばかりの、クリスマス限定ブレンドの豆を開封すると、ナッツに似た香ばしい深煎りの匂いがした。二人分のコーヒーを淹れ、食器棚からマグカップを取り出そうとした時、悠太朗は滑らせた指先にハッとする。
「あっ!」
声を上げた直後、マグカップの一つが床の上で亀裂を走らせた。追いかけた悠太朗の手だけが虚しく中に浮き、落胆の声が洩れる。
「最悪…。やらかした」
「割れた?」
「うん。すぐ片付けるから猫たち捕まえてて」
「ん?あぁ、こらこら。君らは見に行かんでよろしい」
物音を聞きつけ、なんだなんだとキッチンに集りたがる猫たちを保護してもらい、悠太朗は急いで掃除機を引っ張り出した。洗い物をお湯でしていたのもあって、手が乾燥していたのが要因だろう。片付けを終えた悠太朗は、カフェラテを持って漸くコタツへと辿り着く。
「この時期は特に手が乾燥するんだよね」
「ハンドクリーム塗ればいいのに」
「んー…そうだけどさぁ」
玉城の提案に対して悠太朗は煮え切らない反応をした。ものぐさな性格のまま三十代まで生きて来た為に、指先のケアなんて爪を切る以外の選択肢が存在しない。
「ハンドクリーム出しすぎたって言って男の手に塗ってくるの、本当にやる人いるんですかね」
唐突な疑問を溢した玉城は、つけっぱなしのテレビを見ていた。どうやら、街頭インタビューを受ける女性の発言がその疑問の出所らしい。
「付き合ってもないのにそんなことされたら、僕は驚くかも」
「まぁ、もしかして自分に気があるんじゃないかなーって思わせる所に意味があるとしたら、驚くことは結果として正解かもしれませんけど」
「そういうもんか」
「多分。いや、分かんない。されたことないですし」
「僕もない」
ならば話はここが終着点だと。終わってしまった会話にマグカップを傾けると、玉城が思い出したかのように腰を上げた。
「生憎ハンドクリームではないんですけど」
そう言って持って来たのは、薄い楕円形の缶に入った保湿クリームだ。手だけでなく顔や唇にも使えるロングセラー商品。悠太朗は猫の毛がついて鬱陶しいので殆ど使わない。
「別にしてほしいわけでは…」
玉城は悠太朗の言葉を無視して隣に座ると、缶の蓋を開けた。掬われた白い重めのテクスチャーを軽く広げ左手を取られる。指の絡む光景を無言で見つめていると、やや近付いた気配を察し顔を上げた。まだ薄くクリームの残る中指が唇をなぞり、悠太朗は思わず身を固める。そして間を空けずに奪われたのは呼吸なのか、はたまた理性や心そのものか。
「やばいね」
直後に悠太朗が口に出来たのはそれだけ。玉城はただ悪戯に笑っていた。保湿された手はやはり猫の毛が付くし、続けてしたキスは少し苦かった。それなのに悪くないと感じてしまうのは、玉城がそこにいるからだと悠太朗は思う。成人男性が二人で、猫も三匹いて、狭いと嘆きながら同じベッドで眠る時と一緒だ。
「ねぇー、一生のお願い言ってもいい?」
携帯電話のアラームが鳴るよりも前の早朝。布団から頭を出した玉城が猫撫で声で問う。普段はギリギリまで甘えることを躊躇うくせに、悠太朗が年下にそうされるのに弱いと知っての所業だ。そして彼がこの決まり文句を前置きにする時、続けられる内容は大抵くだらない。
「それ先週も聞いたよ」
「ゴミ出し行って来てー?」
悠太朗の指摘は完全な無視で、随分と甘えた声が強請った。しかし、先週の終わりから関東は急激な冷え込みに見舞われ、朝の布団を出る瞬間程辛いことはない。今月はゴミ出し担当ではないと悠太朗が返事をせずにいると、玉城は諦めたのか渋々といった風に布団から抜け出し、少しして玄関のドアが開閉される音がした。そのまま夢と現の狭間を彷徨いながら、やはり寒いしたまには自分が行ってもよかったかと考えていると、悠太朗の首筋に氷のように冷たい何かが突っ込まれた。
「わっ…!」
あまりの冷たさに首を竦め、微睡んでいた目が開いた。咄嗟に掴んだのは冷え切った手で、悪戯が成功した子供のように玉城が笑っている。
「ねーぇー!」
数秒前の仏心を返してくれと、流石の悠太朗もこれには苦言を言いたくて、掴んだ手首を引き寄せた。しかし、相変わらず笑いを刻む玉城が布団に頭を枝垂れ、まだ微睡みを残した目元が蕩ける。悠太朗は、指先の掠った頬がじわりと熱くなるのを感じた。狡い、悔しい。悪戯が過ぎると文句の一つでも言いたい。それなのにこの愛おしさの前では、喉まで出かけた言葉が全て溶けてしまう。冬休みもサンタクロースもいないこの季節は、思っていたよりずっとプラトニックに青いらしい。
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