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ランの高笑いが響き渡る。
見れば、カシヅキに押し潰されたランは仰向けに転がっていた。
胴体は、半ば島に埋もれている。
地面から突き出た両手、両脚は、あり得ない方向へ曲がっているが、痛覚はないのか、鼻歌でも歌い出しそうだった。
「おしいっ。おしいねーえ。あたしだけじゃあ価値がたりなかったみたいだよ。カハハギさまにはわかるんだよねえ、タイセツか、タイセツじゃないか。だってハハだもん。ハハはなんでもしってるの!」
凛は思わず、かっとなって立ち上がった。
「耳障りなのよ、あんたの声。私への仕返しのつもり? 私があんたの居場所を奪ったから。生きる権利をかすめ取ったから」
「んははは、シカエシなんかじゃないよぉ。言ったでしょう? ランはね。りんがだぁいすきなんだよ。りんといっしょがいいの。りんといっしょになりたいんだよぅ」
「私と一緒……?」
ふと気付く。
カシヅキの下ぶくれた、おかめ顔がこちらを見ている。
脂肪に埋もれた小さな黒い眼と、視線がかち合う。
怖気が走った。
指先が硬直し、持っていた包丁の柄がするりと抜ける。
本能が逃げろと叫んだ。
しかし次の瞬間、凛はカシヅキの大きな腕に引き倒されていた。
いっとき、目の前が暗くなる。
それはほんのわずかな時間だった。
ずり、ずり、ずり……。
身体が引きずられている。
壊れたぬいぐるみでも運ぶように、無頓着な暴力に弄ばれている。
そう認識したときには、ランの首がすぐ目の前にあった。
「い゙ぃィっ」
左腕が、ないーー?
いや、違う。腕はある。
腕はあるのだが、脈打つ地面に、半分呑み込まれている。
「あぁっ、あ゙っ、あ゙っ、あゔあぁあーー!」
い、いたぃ、皮膚が引っ張られてちぎれそう。
左腕が、地面にうずもれた部分が、すごく熱い。
目と鼻から、びたびたと液体が流れ落ちる。
「りぃん、やっときてくれたね。これでツリアッタよー! ルイも助かるね? カハハギさまにオネガイして、めでたしめでたし。やっぱり、ランが言ったとおりになったぁ。うふふ、りんとランは、おんなじだって。おなじものになろうね。また、胎内へもどろう」
ーーもどろう。
その言葉を、凛は頭の片隅で聞いた。
左腕の感覚が鈍っていく。
全身がブルブル震え出した。
痙攣、いつかの流生みたいに。
本物の、化け物になる。
なってしまうかもしれない。
このナカに入ったら、確実に、外見はそのままに、中身は別の何かになる。凛は直感でそう感じた。
じぶんがじぶんでなくなってしまう。
あくいのないあかんぼうみたいに。
ランみたいに。
わらいながら、ツギのウツワをさがすようになってしまう。
わたしじしんをタイカにねがえばーー。
「凛、何も願うなッ」
血の玉が飛び散った。
何が起こっているのか分からない。
ただ、凛のかすんだ目の端に、朔夜が背を向けて立っているのが見える。
彼の手には、凛が先ほど落とした包丁がある。
どうやら、朔夜が、カシヅキの腕を切りつけたらしい。
「しっかりしろ、俺の声が聞こえるか!? くっそ、せめて前もって事情を説明しといてくれよ。……オイ凛、お前が俺をここに連れて来たのは、あの橋がふたりじゃないと渡れないから。そう言ったよな。本当にそれだけか。それだけなのか? だったら、凛のお母さんや、お父さんだって良かったはずだろ! なんで俺だったんだよ」
徐々に、焦点が定まる。
朔夜の声と、自らの思考と感覚が集まり、像を結ぶ。凛自身に収束していく。
「わ……。私は、私にとっては、流生も、お母さんもお父さんも、朔夜も。同じくらい大事だった。でも、それでもーー朔夜と来ることを選んだのは」
なぜだったっけ。
どうして朔夜だったんだっけ。
「朔夜に、知って欲しかったから……たぶん。私のこと。どんな私でも、嫌いにならないで」
色恋抜きに、凛という存在が確立するために、朔夜には離れて欲しくなかった。
いっとう、特別だったからだ。
「まったくーー。俺たちふたりとも、救えないな」
お互いさま。
凛に頼られることで、自尊心を保っていたんだから。
そんな朔夜の心の声が、聞こえてきそうだった。
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