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大学の夏休みも終わった九月半ば。
赤とんぼが飛んでいた八月の終わりから、時間が経つのはあまりに早かった。
優里の話じゃ、伊織は少しずつ元気を取り戻しているらしい。少し前に俺が会った時は、まだ重い空気の中にいた。よく笑っていた伊織は笑わなくなっていた。それから、伊織は手の甲に朱い牡丹の刺青を彫っていて、俺は真冬さんの身体にある牡丹をハッキリ思い出して、胸が痛んだ。
俺と優里では、真冬さんとの間をどうこう出来るものじゃない事は明らかで、見守るより他なかったから尚更だ。
俺達を守ってくれた二人はもうかかわる事はないんだろうか…。
二人を見ていると、俺と優里は切なくて堪らなかった。
そして、あれから変わった事は何もない。
居酒屋さくらでのバイトは七斗や学との関係も良好なままだし、八神さんも仁さんも以前に増して俺を弟のように可愛がってくれる。
優里との関係も…
大学からの帰り道、いつものファーストフード店に立ち寄り講義の内容をノートに整理しなおしていた。
向かい側が急に暗く陰る。
ゆっくり顔を上げると、そこにはトレイを持った高身長のイケメンが立っていた。
「すみません、席が満席で…向かいの席、良いですか?」
と、何処かで聞いた事のある台詞を呟いてくる。
俺は辺りを見渡し、意地悪に返事を返す。
「見る限り、他の席、空いてますけど…」
彼は吹き出しそうになるのを我慢しながら、トレイのシェイクを手に一口飲むと言った。
「じゃあ…言い直しますね。あなたに一目惚れしました。相席してもいいですか?」
俺は我慢出来ずにクスクス笑ってしまう。
俺があの日、あの瞬間、相席をスッパリ断っていたら…俺達には何も生まれなかっただろうか。今この未来は、待っていなかっただろうか。
幼い俺達は愛が何かはまだ分からない。
この気持ちがそうなら良い。
育んで壊れなければ…それが愛になるならば。
きっとおまえもそう思ってる。
「どうぞ。俺も君に一目惚れしたところだよ」
優里が俺の頰に触れる。
俺はノートを衝立にして周りからの視界を塞ぐ。
ゆっくり近づいた唇が、ソッと俺の唇と重なるとそれはとても甘い
甘いシェイクの味がした。
END
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