雨に眠らず

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「おまえはねえ、雨が降ると泣く子だったのよ」  晩ごはんを終え、湯呑にお茶を注ぎながらお母さんは言った。  はい、と差し出された湯呑を受け取って、私は「急にどうしたの」と返す。 「雨が降ると、思い出すの」  しみじみと言うお母さんに、たしかに雨は降っているけれど、と私は居間の窓へと目をやる。昼過ぎから降り出した雨の勢いは結構なもので、雨戸を閉めていても地面や屋根を叩く音が聞こえてきている。 「それはもうよく寝る子だったのに、雨の日だけはぎゃあぎゃあ泣いてねえ。梅雨なんか、大変で大変で」 「そうだったの?」 「そうだったの」  私の記憶には無い私の話を聞きながら、湯呑に口をつける。  この家で最後にお茶を飲んだのは、就職のために引っ越す前の日だったか。私がここに住んでいた頃から、お茶の銘柄は変わっていないらしい。子どもが飲むには渋くてつらいお茶を、お母さんは好んで飲み続けている。 「言ったことあったかしら。お父さんがてるてる坊主をベビーベッドの上に吊るしたことがあったのよ」 「ふふ、なにそれ」 「雨が嫌いなんだろう、って大真面目に言いながらね」  それは、想像にたやすかった。お父さんは、おまじないの類を大事にする。朝のニュース番組で占いの順位が低いと、いかめしい顔をしかめて唸っていたのを、子どもながらおかしく思ったのはよく覚えている。  ずず、と音を立てて、お母さんがお茶をすする。ばしゃあ、と、お父さんがお湯を浴びる音が居間まで届く。その間もずっと、雨音はぱたぱたぱたと規則的に鳴り続けている。  こんな音たちに囲まれたら、泣いても仕方ないかもしれない。赤ん坊の私は、随分と繊細だったのだろう。 「ああ、忘れてた。布団出さなきゃ」 「ん……いいよ、自分でやるから」  腰を上げかけたお母さんを制して、残っていたお茶を一息に呷った。  引っ越す前に、部屋の片付けはしていった。おかげで、二十年近く過ごした子ども部屋は、幼少の私の痕跡などろくに残っていない殺風景な部屋になっている。  押し入れを引き開けて、入っていた布団を取り出す。時々、干してくれているのだろうか。防虫剤の臭いは移っているものの、埃っぽさは感じない。  ばさ、と軽く振って布団を敷く。かつてそうしていたように、部屋の真ん中に、窓を頭側にして。覚えている。こうして布団を敷くと、カーテンの隙間から入る日差しが、ちょうどいい目覚ましになってくれる。  なんとはなしに、布団の上に寝転がる。頭の上で、窓から抜けた雨音が強く鳴っている。部屋の戸を閉めてしまえば、この部屋に満ちるのは、雨音だけ。 「……ああ」  思い出した、気がする。  私は、雨が嫌いだった。地面や屋根を叩くそれは、いろいろな音をかき消してしまうから。  雨の日にここで寝ると、居間にいるお母さんやお父さんの立てる音が届かなくなってしまう。それが怖くて、小さい頃は戸を開けて寝ていた。テレビの音や、お母さんとお父さんが声をひそめて話す音が、私を安心させて眠りへと導いてくれた。  きっと、もっと小さい頃の私もそうだったのだろう。私は、雨音だけの世界に置き去りにされるのが怖かったのだ。 「お風呂、あいたわよー」 「うん、今行く」  とんとん、と戸をノックしてくれたお母さんに、寝転がったまま答える。お風呂を出たら謝っておこうか。いまさら、と笑われることだろうけど。  部屋には、相変わらずぱたぱたぱたと雨音が鳴り続けている。今の私にとっては、ただ雨が降っている、という意味しか持たない音が。
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