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第1話 ひとりぼっちの夜
「ねえ、柑奈。柑奈には秘密があるの」
あれは確か、四歳の誕生日の前の日。つまりは、三歳最後の日のことだった。大切な話がある。そう言われた私は、ドキドキしながらお母さんとお父さんに向かい合って座ったんだ。
秘密、という言葉に心が躍って、でも、私の手を握るお母さんの手が少し震えているのが伝わってきたから、不思議に思ったのを覚えている。
「柑奈はね、お母さんが神様と約束をして生まれてきたの。柑奈の眠りと引き換えに、柑奈をお母さんたちの元へ来させてくれるっていう約束」
眠りって……?
戸惑う私に、お母さんは続けた。
「だからね、柑奈はみんなと違うの。柑奈はずっと起きていられるでしょ? 一日中ずっと、いろんなものを見たり、聞いたりできるし、考えることもできる。でも、ほかの人はそうじゃないの。お母さんも、お父さんも、みんなそう。眠らないと生きていけないの。……ごめんね柑奈」
そのころはまだ、自分がみんなと違うっていうことが、眠るってことがなんなのか、きちんとわかっていなかったんだ。
だって、お母さんとお父さんが交代交代で一緒に起きていてくれたから。私をひとりにしないようにしてくれたから。
だから私は、とびきりの笑顔で「いいよ!」なんて言って、お母さんにぎゅっと抱きついたんだと思う。
その意味を本当に理解したのは保育園に入ってしばらくしてから。例えば、お昼寝の時間。例えば、お泊り会のとき。
どうしてみんな話しかけても返事をしてくれないの?
どうして先生は私が起きていると怒るの?
目を閉じなさいと言うけれど、そんなことをして、なんの意味があるの?
眠るというのはなんなの?
悩んで、考えて、訊いて、泣いて。
ようやく、「眠る」ということの意味を知った。
お母さんの「ごめんね」の意味を知った。
眠らなくてもいいなんて、うらやましいと思う?
教えてあげる。そんなことない。そりゃあ、確かに使える時間は多いよ。
でも、それだけだから。
別に、空を飛べたり、魔法が使えたりするわけじゃない。どうせみんなと違うなら、生きていくのにもっと楽しい違いがよかった。
ひとりで過ごす夜は退屈だし、少し怖い。自分だけ世界から仲間外れにされたみたいな、そんな気持ちに襲われる。
小学生になって、段々とひとりで過ごす夜が増えた。ひとりの時間は別に嫌いじゃない。でも、それは少し長すぎた。
だから、というわけなのかはわからないけど、私は本を読むようになった。図書館から、あるいは学校の図書室から毎日三冊くらい借りてきて、夜のお供にした。
本にはずいぶんお世話になっている。スマホはあったらずっと使うでしょって持たせてくれないし、夜通しやらなきゃいけないことだってそんなにない。眠れないから嫌なことがあっても、眠って逃げるという手が使えない。でも、本を読んでる間はそんなことも忘れられたから。
そんな私も、この春休みが終われば六年生だ。だからといって、ひとりの夜が変わるわけではないのだけど。
突然、眠れるようになったらいいのに。そう願っても、窓から見えるのはただひたすらに黒い世界。
ひとりぼっちの夜が大嫌いだった。
――君と出会うあの日までは。
◇◇◇
春休み最後の日の夜。私はお母さんとけんかした。お母さんの小言がきっかけ。でも、小言を言われるのはいつものことだし、はーい、って適当に返事してやっとけばなんてことはなかったんだけど……。お母さんのあの一言が、どうしても納得できなかった。
「もう六年生になるんだから、ちゃんと自分の部屋はきれいにしなさい。いつもいつも、すぐ散らかして。柑奈は時間たくさんあるでしょ。本ばっかり読んでないで、片付けくらいちゃんとやりなさい」
そう言ったお母さんは、当たり前のことを言っているつもりだったんだと思う。六年生だからなんだ、とは思うけど、部屋をきれいにするべきなのは確かだし、いつも散らかしてるというのも、まあそうかもしれない。
でも、時間がたくさんあるでしょっていうのは我慢できなかった。
私をそう生んだのはお母さんでしょ? 時間があるからなんだっていうんだ。私はそれで毎日毎日悩んでるというのに。
本ばっかり読んでるだって?
ほかにできることがないからでしょ?
なにをしようにも、一緒にやってくれる人が誰もいないからでしょ?
「そんなのお母さんのせいじゃん。お母さんが無責任に神様なんかと取引するから。私をみんなと違く生むから――」
気づいたら言い返していた。
お母さんは、それでもあなたに会いたかった、とか言うけれど、そんなのお母さんの自己満足でしょ?
言い訳だ。だって、代償を支払っているのは私なんだから。
別に、お母さんもお父さんも私を大切に思ってくれていることなんてわかってる。
でも、それとこれとは話が別だ。
お母さんが悪くないのなら、お父さんが悪くないのなら、誰が悪いの?
この怒りはどこにぶつけたらいいの?
それとも、こんなことを思ってしまう私が悪いの?
お互いに謝らないまま時間が経って、そのうちお母さんは寝室へと向かっていった。その後とった行動に深い意味なんてなかった。本を読んでもちっとも集中できない。
どこかへ行きたかった。
家にいたくなかった。
あの暗闇の中はどうなっているのか知りたかった。
――ひとりの夜に耐えられなかった。
夜、ひとりで外に出ない。
これは、親としている唯一の約束。
門限とか、食事のマナーだとか、細かいルールは、我が家には一切ない。だけど、これだけは約束だった。お母さんたちから、私の「秘密」を明かされたときにした約束。破ったことなんてもちろんなかった。
でも今日は、怒られてもいいやと思った。だって、散々怒られたんだから。そんな心配、いまさらでしょ?
パーカーを羽織って、自分の部屋を静かに出る。お母さんたちの寝室のドアに耳をそっと当てた。大丈夫。ふたりとも寝ている。
足音を立てないように階段を下って、ゆっくりと玄関の鍵を開ける。恐る恐る外に出て、鍵を閉めた。
ガチャリ。
静かな夜に響いた音は、聞き慣れたはずなのにどこかよそよそしかった。目の前に広がる暗い世界が、全く新しい世界に見えた。
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