第二章 初めての恋心

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第二章 初めての恋心

 梅雨真っ只中の陰鬱(いんうつ)な天気の中を、僕は傘を差しながらフラフラと学校へ向かって歩いていた。  奏佑と出会って以来、僕の心は乱れまくりだ。何をしていても上の空で、ピアノの練習にも身が入らない。  去年はコンクールで負けた悔しさから脇目も振らずピアノに向き合っていたのに、今年はピアノに向かうことすらままならない。このままじゃ来年のコンクールもいい成績は期待できそうにないよな……。  あれもこれも奏佑(そうすけ)のせいだ。奏佑と出会ったせいで、こんな気の抜けたような腑抜(ふぬ)けな(つら)衆目(しゅうもく)(さら)している。僕らしくもない。  僕は自分の頬を一度両手で強く叩くと、自分に気合を入れ直した。  靴を履き替え、自分の教室に向かうと、何やら教室が騒がしい。何を騒いでいるんだろう。  だが、僕がその理由を尋ねることのできる相手はこの教室の中にはいなかった。  どうせくだらない話だろう。  僕はクラスの連中を無視して自分の席についた。すると、普段挨拶程度しか交わしたことのない前の席のクラスメートが僕に話しかけて来た。 「おい、霧島(きりしま)。転校生が来るんだってよ。そいつ、ピアノがすげぇ上手いって噂だぜ。お前のライバルなんじゃないの?」  この時期に転校生なんて、珍しいこともあるものだ。転校といったら、普通は学期の初めにするものだろう。こんな一学期()只中(ただなか)の中途半端な時期にわざわざ転校してくるなんて物好きもいたもんだ。 「ふうん。そうなんだ」  僕は()して興味もなかったので、彼に適当に返事をした。  ピアノが上手いといっても、どうせ趣味の範囲だろう。僕が通うのは音楽科もない、普通の県立高校の普通科だからだ。コンクールに出てプロを目指すような連中は、その多くが音楽高校や音楽科のある高校に通っている。  僕はといえば、将来の先行きが不安定な音楽の道に進むことを母親に反対されていた。高校の音楽科を目指すなど、もってのほか。きちんと勉強を頑張って、県下一の進学校を受験しなければ、ピアノを続けることすら許してもらえなかったのだ。  だが、進学したはいいものの、勉強の時間を削ってピアノを弾き続けた結果、高校に入学してから成績はほとんど最下層を行ったり来たりしている。くだらない数学やら歴史やら古文やら、なんの意味があって勉強しなければならないのかもわからなかった。  つれない僕の反応に、前の席のクラスメートは気分を害したようで、その後何も僕に話しかけては来なかった。  朝のチャイムが鳴り、ホームルームが始まる。担任教師の宮沢(みやざわ)が転校生を伴って教室に入って来た。興味はないが、どんなやつか、顔だけは見ておくか。そう思って前を向いたが、その転校生を見るなり、僕は思わず「あっ!」と声を上げた。それは、あの津々見(つつみ)奏佑だったのだ。  いつも誰とも話さず、一人で静かに座っているだけの僕がいきなり声を上げたので、教室中の視線が僕に集まる。奏佑の方も僕を認めるなり、 「(りつ)!」 と声を上げた。そんな僕らの様子に、 「なんだ、お前ら知り合いか?」 と宮沢が尋ねた。 「はい。コンクールで一緒になったんです」 と、奏佑は宮沢に答えた。 「ああ、そういうことか」  宮沢はそう納得すると、教室全体に向かって、 「今日から君たちと一緒に勉強することになった転校生を紹介する」 と言って、奏佑に自己紹介を促す。 「津々見、自己紹介して」 「津々見奏佑です。どうぞよろしくお願いします」 「津々見の席は、霧島の隣でいいか?ちょうど霧島の隣の席空いているんだ。知り合いなら、いろいろわからないことはあいつに教えてもらえ」  そう言って、宮沢はあろうことか僕の方を指差した。なんと、奏佑の席は僕のすぐ隣になったのだった。奏佑は僕の隣の席につくと、 「よっ。まさかこんな所で会うとはな」 と僕に気さくに話しかけて来た。 「うん」  僕は心の動揺を隠すためにできるだけ無感情を装ってただそれだけ返事をした。奏佑が僕の同級生になるなんて。これからずっと隣で勉強することになるなんて。僕は何度も奏佑のことが気になっては彼の方をチラチラ見ていた。 「霧島、なにを余所見(よそみ)しているんだ。授業に集中しろ」 と、そんな落ち着かない僕は教師に何度も注意されるのだった。  休み時間になると、奏佑の周りには大勢の人だかりができた。奏佑の容姿が、イケメンコンテストに出てもグランプリを取れるくらいの端正な顔立ちに、長身でスタイルも抜群だったこともあってか、女子たちが違うクラスからも集まって来たのだ。  やかましいやつらだ。キャーキャーと耳障(みみざわ)りな声を上げやがって。  僕はそんな奏佑の周囲に集まる女性生徒たちを軽蔑を軽蔑した目で一瞥(いちべつ)すると、教室を出た。  僕は休み時間の間、音楽室のピアノで練習することに許可を貰っていた。ああいううるさいだけの連中のそばにいる時間があったら、一分一秒でもピアノを弾いていたかった。  僕は一人、音楽室に入ると指馴らしがてら、ショパンのエチュード作品10第四番を弾き始めた。女々しくて嫌いなショパンの中でも、この曲は数少ない好きな曲の一つだ。激情が(ほとばし)るような激しいパッセージが連続するまさに僕好みの曲調だ。  だが、今日の僕はなぜだかピアノに集中出来ず、無性に腹が立って仕方がない。この妙に胸のムカムカする感覚は、コンクールで演奏を終えた奏佑が大勢のファンに囲まれているのを見た時のムカつきとよく似ていた。  あの女ども。なんだってあんなに奏佑の周りに集まって悲鳴を上げているんだ。奏佑が自分たちのものであるかのように振舞っているんだ。奏佑もなにヘラヘラ笑ってあんなやつらの相手をしているんだ。  あの光景の何もかもが気に食わない。僕はほとんど弾き殴るように激しい旋律を奏で、最後の(えい)ハのオクターブを叩きつけた。 「へへへ。なんだか、えらく荒れてるね、律」  弾き終わるなり、誰かが僕にそう声をかけた。  僕のピアノの練習を邪魔するやつは一体どこのどいつだ。  僕が苛立ちながらピアノから目を離して音楽室の入り口を見ると、奏佑がニヤニヤ笑いながら立っていた。 「そ、奏佑!」  僕は驚いて、思わず椅子から転げ落ちてしまった。 「そんなに驚くなよ。俺も一緒に弾かせてくれよ。いいだろ?」  奏佑は僕の代わりにピアノの前に座ると、僕が先ほどまで弾き殴っていたエチュードを弾き始めたのだった。
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