雨天芋天

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雨天芋天

何をするでもなくただぼんやりとしていると、不意に幼少の頃の記憶が蘇るのは誰しも経験があると思う。僕の場合は、かすかに聞こえる雨音がそれを引き起こすものだった。 まだ母よりも随分背が低く、シンクに乗り上げるように母がキッチンに立つ姿を見上げていたあの頃。夕焼けに燃える窓を背に立ち、エプロンを巻いて菜箸を繰る母の姿は憧憬と言っていい。そして決まって思い出すのは、小気味良く泡が爆ぜ、しかし近づけば無事では済まないほどの熱気を湛える鉄鍋とむせ返るほどの油の匂い。 「お母さん、何揚げてるの?」 「今日は天ぷら。あっ、でもつまみ食いはダメよ、ご飯入らなくなるからね」 そんなごく当たり前の、それでいて少し特別な幼き日の景色。その日の風景がまるでネガのように、時折僕の脳裏によぎる。 あの日、悪戯がてらにつまみ食いをしたのは何だったっけか。自分の小さかった指が伸びる光景を想起した所で、不意に油の跳ねる音が強くなったかと思うと突然暗転し、夕暮の景色はあえなく消えてしまったのだった。
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