男爵令嬢は魔獣狩りがお好き

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男爵令嬢は魔獣狩りがお好き

「シュレーゼマン子爵家から結婚の申し込みがあった」 一か月ぶりに会った父の言葉に、鹿の背にあてたナイフの刃先が滑り「あっ」と声が漏れた。 「だから手を止めて話を聞いてくれと言ったのだ、マリアンナ。怪我でもしたらどうする」 鹿を横たえた作業台にナイフを置き、手を拭う。父がわたしに向けるのはいつも苦笑のような気がする。 魔力のせいで黄みがかった毛色の鹿。皮を剥がすと美しいルビー色の筋肉。この貴重な魔獣の皮を剥ぎ終えないことには、子爵家との縁談などという眉唾な話に耳を貸す気にならない。父のことは嫌いではないけれど、約束もなしに作業場まで押しかけられるのは少々迷惑だった。 「せっかくの魔獣の毛皮に傷がつかなくてよかったです。ここらあたりの猟場で魔力を感じられる獣は少ないですから。一番高値で売れるのは魔力貯留が可能な角ですけど」 肩に向かって皮を剝ぐわたしの視界の端に、父の腰にある東部騎士団支給のブロードソードが目に入った。そういえば父とは一度も剣を交えたことがない。 わたしに投げナイフの素養があるのは父も知っているけど、わたしが剣を使えることは内緒にしている。師匠は家門の者ではなくザルリス商会専属ハンターだし、剣の種類も父のとは違って細身で先の尖ったレイピアだ。 「マリアンナはヨハンより逞しいな」 ヨハン――、ヨハン・トッツィ。腹違いの兄と最後に会ったのは二、三年も前で、顔もよく覚えていない。 「ヨハン様はお元気ですか?」 「一週間前に家を出たから、そろそろ帝都に着いた頃だろう」 「そういえば、デビュタントの舞踏会に出席されるのでしたね」 毎年初夏に開催される舞踏会は少女の社交界デビューの場でもあり、未婚の男女が結婚相手を探す狩り場でもある。だが、わざわざ領地から帝都に赴いて参加する貴族など滅多にいない。田舎者扱いされるだけだ。 「ヨハンも今年で十九。男爵家の跡継ぎなのだからそろそろ身を固めても良いのだが」 父はため息を吐いた。 トッツィ男爵家は帝国屈指のザルリス商会を領内に抱え、堅実な領地経営を行っている。記憶もおぼろな兄の顔ではあるけれど、噂では見目も良いと聞くし、縁談もいくつか来ているようだった。 兄の結婚の障害となっているのは男爵夫人の理想が高すぎること。伯爵家、あわよくば公爵家との婚姻を目論んでいるらしい。 「男爵夫人のお眼鏡に叶う令嬢はなかなかいないでしょうね」 「この度の帝都の舞踏会にはアルヘンソ辺境伯家の令嬢がおふたりとも参加するらしくてな、ヨハンは乗り気でないようだったが、母親に強引に送り出された。さすがに同情したよ」 男爵の息子ごときが辺境伯令嬢に相手にされるはずがない。しかもアルヘンソといえば亡き皇后の出身家門。高望みにもほどがある。 「男爵様は平民と結婚したというのに」 「マリアンナには苦労をかけるが、父はおまえの母さんと結婚できて幸せだよ」 こういう恥ずかしいセリフをサラッと口にするから滅多に顔を出さない父でも憎めないのだ。 「苦労などありません。この山の中の別宅はわたしにとって天国。一生引きこもっていたいくらい」 父はわたしの言葉に苦笑する。 「子爵家からの申し入れ、一度考えてみてくれないか?」 「無理なのはお父様もよくご存知でしょう? わたしは商会の人と結婚するつもりです。それが男爵家とザルリス商会のための最善なのですから。おじい様がこの縁談のことを知ったらなんと言うか」 「会長からは、会うだけ会わせてみろと言われたのだ」 「えっ? それはあり得ません。だってわたしは……」 作業小屋の開け放したドアの向こうに馬丁の姿が見えて咄嗟に口をつぐんだ。父の言う〝会長〟とはザルリス商会の会長。わたしの母方の祖父のことだ。 「マリアンナ。実はこの話は会長から言ってきたのだ。商会と子爵家との間にどんなやりとりがあったのか知らんが、男爵家のうちが子爵家からの申し入れを無碍に断るわけにもいかん」 巷では別宅に追いやられ魔獣狩りに勤しむ変わり者の男爵令嬢と言われているわたしに結婚を申し込むなど、シュレーゼマン子爵家はいったい何を考えているのだろう。 「おじい様の思惑とは思えませんが」 「あるいは子爵家に知られたとか」と、父は声を潜めた。ドクッと心臓が跳ねる。 トッツィ男爵家当主だけが知るザルリス商会の秘密。それは、会長一族がリスザルの獣人だということ。 わたしは獣人だ。会長である祖父も、もちろん母も。 黄色い体毛に顔周りの毛はグレーに近い、長い尻尾を持ったリスザル。それがわたしの獣の姿。 トッツィ男爵は母が獣人だと知ったうえで愛し、反対を押し切って第二夫人に迎えた。獣人が虐げられるこの社会で、わたしの父トッツィ男爵はかなりの変わり者。 人間と獣人の間の子どもが人間か獣人か、それは生まれるまでわからない。結婚当初正妻と一緒に本宅で暮らしていた母は、懐妊が分かると馬車で一時間ほどの場所にある別宅に移った。妊娠出産を想定して婚約時に祖父が贈った人目につかない山の中の邸宅。わたしはそこで生まれた。 母の世話係も使用人もリスザル獣人族で固め、わたしは変身が安定する六才まで別宅に籠り続けた。父は今と同じように数週間に一度顔を見せた。 本宅を初めて訪れたのは十才。驚いたのは男爵夫人がドレスを着ていたこと。 母も侍女も、ザルリス商会の女の人も町で暮らす婦人たちも、着ているのはサリーと呼ばれる細長い一枚布からなる服だ。トッツィ領でドレスを着ているのは領地外から来た金持ち貴族くらいで、商売人らはドレスの婦人を見ると「カモが来た」と喜ぶ。 そんな下町事情を知っていたから、男爵邸でドレスを見た瞬間「カモだ」と思った。会食のメインディッシュに鴨が出て笑いを堪えるのが大変だった。 男爵令嬢としての扱いなど微塵も期待していなかったけれど、貴族にうんざりしたのはこの日が最初。 男爵夫人は帝都かぶれで母のサリーを田舎臭いと嘲笑し、一度しか行ったことのない帝都の話を鼻高々に喋った。挙句の果てに帝都に移り住もうと父にねだり、父が席を外すと母を売女と罵る。ヨハンは黙々と料理を口に運び、わたしには別宅よりも何倍も広くて豪奢な本宅の人々があまり幸せそうには見えなかった。 飄々と笑顔で受け流していた母は、「夫人はドールハウスに閉じ込められた着せ替え人形」と別宅に帰ってからわたしに言った。お母さんは? と問い返すと「トッツィ男爵の妻で、あなたの母親」とニンマリ笑う。 ――母さんと結婚できて幸せだぞ。 父がそうやって惚気るのと同じように、母は父との出会いを「運命」と言った。わたしにも両親のような運命の出会いがあればいいけれど、今回の縁談は運命どころか裏がありそう。 でも、虎穴に入らずんば虎子を得ず。 「男爵様、シュレーゼマン子爵令息と一度お会いしてみることにします」 「そうしてくれると助かるよ。結婚する必要はないからな」 「もちろんです。とはいえ、シュレーゼマン子爵の意図は把握しておかなければいけません。まずはおじい様のところに行ってみます」 「そうだな。わたしには話せないこともマリアンナになら打ち明けて下さるかもしれん」 「脅してでも聞き出して来ます」 ブツッと音がして皮と胴が離れ、魔獣の頭部だけが生きていた時の姿のままこちらを向いている。 「男爵様、夕食はうちで召しあがられますか? 鹿料理です」 「男爵様という呼び方はやめてくれと何度も言っているだろう?」 「そうおっしゃられても、お父様と呼ぶと男爵夫人が不機嫌になります。この別宅でも〝夫人のお友達〟が聞き耳を立てていますから」 わたしは戸口の馬丁にチラッと目をやる。〝夫人のお友達〟――夫人が送り込んできた密偵だ。 三年前の社交界デビューから、夫人はあからさまにわたしを警戒するようになった。 祖父の策謀により帝都の舞踏会に出席したわたしに、貴族たちから婚約の申し出が続々と届いたからだ。すべての申し出を断った父は「嫁になど行かなくていい」と一人娘を溺愛する親バカを演じる(?)ようになり、わたしはわたしで貴族とは結婚せずハンターとして商会で働くと言って回っている。 それなのに、男爵夫人はわたしが平民の男を連れ込んで男爵家を乗っ取ろうとしていると考えているらしい。密偵を初めて送り込んできたのは舞踏会の半年後。その後何度か入れ替わり、今いる〝夫人のお友達〟は馬丁と侍女。 飛んで火に入る夏の虫とはこのこと。獣人族の中で〝お友達〟だけが浮いているというのに。 「頼りない父で申し訳ない」 父が口にした。馬丁が〝夫人のお友達〟だと気づいたようだ。わたしは剥いだ皮に塩をまぶして壺に入れ、馬丁に声をかける。 「コックを呼んできて。皮は剥いだから後は任せるって」 馬丁は一瞬ためらい、「はい」と足早に母屋へ駆けて行った。 壺の中の鹿皮に塩をかぶせて蓋を閉じ、エプロンと手袋を外す。皮なめしも一度は自分でやってみたいけど、わたしに向いているのは狩り。 いずれ男爵家から籍を抜いて祖父のもとに行くつもりだった。父が悲しむからまだ口にはしていないけれど、商会専属のハンターから狩りの技術に加えて剣も教わっていたし、ザルリス商会に身を置く母から商取引のいろはを学んだ。 「マリアンナ、肉は売らないのか?」 「肉ではなく恩を売ることにします。魔獣の肉はおじい様にとって精力剤ですから。お父様にとってはふつうの鹿肉ですけど」 「せっかくだから鹿肉をいただいていくとしよう」 「お母様もじきに戻って来ます。久しぶりに三人での食事ですね。侍女には席を外すよう言っておきます」 「そうか」と、父は笑みを浮かべながら複雑な顔をする。 「他に席を外すべき者はいるか? 気に入らないなら辞めさせてもよいのだぞ」 「あとはみな家族です。それに、彼ら(・・)にも利用価値がないわけではありません」 フッと、呆れたような笑い声を父は漏らした。 「さすがザルリス商会会長の孫だな」 「お父様の娘ですから」 父と一緒に作業小屋から出ると、小鳥が椎の木の枝にとまっていた。キュイッとひと鳴きしてわたしの足元に降りてくる。 「見かけない鳥。きれいな羽色ですね。人を怖がらないし、捕まえたらペットとして売れるかも」 わたしの言葉を理解したように、鳥はバサバサッと羽音をさせて後退った。 「まったく、マリアンナは」と父は笑う。 小鳥は逃げることなく遠巻きにわたしたち父娘の様子をうかがっていた。青空みたいな羽色の鳥。幼いころ出会ったサーカス団の少年が脳裏を過ぎった。 運命の出会いを夢見ていた頃の、わたしの初恋(黒歴史)
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