crossroads

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crossroads

 その日、ウィーンはまぶしいほどの快晴だった。滑走路に降りる飛行機の窓からは、見渡す限りの青空が広がり、やがてグラデーションのように緑へと変わった。 「まもなく到着ですよ」  運転手が分かりきったことを、うれしそうに伝えてくれた。プラタナスの林の道は、通行車両もほとんどいない。それも当然で、この辺り一帯はバックマン家の持ちものなのだ。その美しい景色を眺めていると、まもなく林の先に(しょう)(しゃ)な門が顔を見せた。  それがバックマン家の屋敷だった。 「なんだか、懐かしい気分になるね」  クラウスがつぶやくと、運転手がそうでしょうとどこか得意げに答えた。  車が門前に停まると、ややあって大きな鉄製の門がゆっくりと開く。車はさっきよりも格段に速度を落として門をくぐった。  庭だというにもあまりに広すぎる敷地には、豊かな水を湛える噴水や、石造りの東屋があることをクラウスはよく知っている。庭は、クラウスたちの格好の遊び場だったのだ。 「本当に……懐かしい……」  いくつもの記憶を思い出して目を細める。唇のなかでつぶやいた声は、運転手には届かなかった。  玄関前に車が停まると同時に、重厚な扉が開く。間髪入れず現れた姿に、クラウスは自然と頬が緩んだ。 「おかえり! クラウス」  車から降りると同時に勢いよくハグの洗礼を受けた。抱えられた頭を撫でられ、至るところに歓迎のキスが降ってくる。真っ黒な髪を撫で返しながら笑ったクラウスが、軽く浮き上がった。驚いて思わずその相手にしがみつく。 「二ヶ月……いや、三ヶ月ぶりだ。会いたかった!」 「わかった、わかったから。レナード、ちょっと落ち着け」  すり寄せられた頬に、三ヶ月前よりも伸びた髭が擦れたところでキスを返し、その身体を押した。不満げに口を尖らせながらも、笑顔のレナードが身体を離す。そんな二人を屋敷の者たちが微笑ましく見守っていた。 「ずいぶんとめかし込んで……出かけていたのか?」  ネクタイにジャケットまでを羽織ったレナードに首を傾げた。これから舞台鑑賞にでも行くかのような装いだ。そう指摘をすると、レナードが「きまっているだろう」とおどけてみせる。 「いいや? クラウスが帰ってくると思ったらうれしくて、つい着飾ったんだ」  ぴたりと並んで歩きながら屋敷へと入る。エントランスの使用人たちが「おかえりなさいませ」とそろって頭を下げた。 「私が出かける前よりも髭が伸びてる」  階段を上りながら、レナードの髭を指先で軽く引っ張った。 「伸ばしたんだよ。以前の長さだとまだ若く見えるらしくて……どうにも舐められてしまうのが腹立たしくてな」 「今はアラブのほうだったか?」 「そう。あそこまで伸ばすのは勘弁願いたいが……」  長く髭を伸ばしたレナードを想像して思わず吹きだした。  ともに三八歳。一般的に若者という歳は過ぎたものの、経営者たちの世界ではレナードもまだ若輩者だ。 「その長さも似合ってる。ワイルドだよ」 「それならよかった」  先に立ったレナードが、廊下の突き当たりのドアを開く。道化じみた仕草で「どうぞ」と招き入れられ、こちらもわざとらしくふんぞり返って中へと入った。  そこは、レナードのプライベートルームだ。幼いころに使っていた部屋より、倍ほども広い。だが、窓から庭が一望できる景観は同じだった。そして、キレイな光沢を見せつけるグランドピアノも――。 「ツアーも大盛況だったみたいじゃないか」 「さすがに七カ国はハードだったけどね」 「実はフランス公演に行ったよ」 「なんだって? どうして連絡をくれなかったんだ?」 「急に時間ができたんだ。けど、最後の曲を聴いたその足でフライトだったんだよ」  庭を眺めるクラウスに、ワイングラスが手渡された。太陽の光に鮮やかな赤が揺れる。小さく縁が重ねられ、レナードがグラスを傾けた。 「わざわざツアーなんかに来なくても、いつだって聴かせるのに」  濃厚な果実の香りにむせそうになりながら、グランドピアノを見る。それは、クラウスの幼いころからの相棒だった。この屋敷には、レナードの部屋のピアノを含め、三台ものグランドピアノがある。 「俺の知らないクラウスの演奏を、ほかの誰かが聴いているなんて嫉妬で狂いそうだったんだ」 「ほかの誰かが知らない私の演奏を聴いているくせに?」  空になったグラスを置いて、身体の一部のように馴染んだピアノに向かう。 「久しぶりに一緒に弾かないか?」  椅子に腰掛けて誘うと、レナードが目を丸くした。 「世界のクラウス・ノイアーと? 恐れ多いな」  そんなことを言いながらも、レナードがステップを踏むようにピアノに近寄った。半分だけスペースを空けた椅子に、無理やり腰をかける。決して小柄じゃない成人男性が二人で座るには、その椅子は小さすぎた。  ぎゅうぎゅうにくっついてそれぞれの片手を出した。レナードの右手の指が、鍵盤の上で軽やかに踊る。そのメロディに伴奏を付けるかのように、クラウスは左手の指を下ろした。  おもちゃの交響曲(シンフォニー)。かわいらしいリズムが部屋の中に広がる。  クラウスがこの屋敷に住むようになってから、はじめて一緒に演奏をした曲だ。両親を揃って亡くしたクラウスを、母の友人だったバックマン夫妻が引き取って面倒を見てくれた。衣食住にくわえ、音楽大学を卒業するまでのサポートまですべて……。  兄弟のように育ったレナードは、クラウスにとって唯一無二の存在でもある。  繰り返し弾いたメロディーすっかり身体に染みついている。引き取られたころ、すでにピアニストだった母譲りの才能を開花させていたクラウスにとって、その曲はいささか物足りなかった。どんどんアレンジしていくと、その度にレナードから難しくなったと文句が付けられたのだ。 「わ、まちがえた!」  レナードが叫ぶ。くずれたリズムを追いかけて一緒に笑う。  楽しげに身体を揺らすレナードに、なんども椅子から落ちかけた。そのたびにまた二人で笑う。  このピアノには楽しい思い出ばかりだ。  一曲を弾き終えるころには、笑いすぎて二人とも息が上がっていた。落ちそうになる椅子の上でキスをする。  唇が重なる。外では重ならない唇が何度も。  レナードの指がクラウスの指と絡まる。指先がペアダンスをするように幾重にも重なった。  午後の日差しがクラウスの髪に反射する。目を細めたレナードがすかさずその細い銀糸を絡め取った。 「……一緒に弾くのも楽しいけど、世界のクラウス・ノイアーが奏でる美しい音色を、ぜひ独占したいんだが?」  レナードの唇がクラウスの手の甲に押し付けられた。上目遣いにねだられ、耐えきれず笑み崩れた。 「私にも、ぜひレナードの独奏を聴かせて欲しいな」 「無茶を言うなよ。せめて課題曲に数ヶ月はもらわないと」 「弾いてくれるのか?」 「クラウスが望むなら」  それは本気だけれど、きっと無理だろう。レナードはきっと一生懸命時間を作って練習をしてくれる。だけど、多忙なレナードでは、その一曲を完成させる余裕などないだろう。  なにせ、クラウスのツアーのせいで数ヶ月離れたなんて言っているが、それ以前でもひと月に二、三日しか会えないことも珍しくない。  父であるアレン・バックマンも現役とはいえ、レナードはすでにバックマン家の実質的な当主で、その責任は小国の長にも劣らない。実質的、というのは、妻帯することによって名実ともに当主となるのが慣例であるからだ。  なので、レナードの立場はまだ御曹司ということになる。そして、実態と異なる肩書きは、周囲からの余計なお世話ともいうべきアドバイスを多数受ける羽目にもなっていた。  それも、もうすぐ終わる。 「レナード、なにが聴きたい?」  滲んだ涙を拭いつつ尋ねると、レナードがうれしそうに思案を始めた。その唇がかわいらしく窄められる。 「それじゃあ、愛の夢を」  頷いたクラウスはスッと背筋を伸ばしてピアノに向かった。見えなくても、背中にはレナードの視線を嫌というほど感じている。  美しいメロディが静かに流れ出すと、クラウスの目には鍵盤が美しい川面のように映し出されていく。  流れるよう指を滑らせ、愛しうる限り愛せと訴える。今、このときが、いつだって愛するべきときだ。そんな詩とは裏腹に、クラウスはこの曲を作ったフランツ・リストに思いを馳せてしまう。美しく情熱的でありながら、彼の恋はどれも成就しなかった。  見返りを求めない愛を説くようなこの曲が、クラウスには叫びのように聞こえる日がある。今日は、まさにそれだった。  これほど愛しているのに。  あれほど愛していたのに。  この愛に未来は存在しないのだろうか?  暗く落ちかけた気持ちを慌てて上昇させる。  愛しい人よ、愛するだけ愛せ――。  レナードは愛を歌う曲を好んで聴いた。クラウスにリクエストをするのも静かに聴き入るような、そんな曲が多い。  ――クラウスの弾く愛は、胸が苦しくなるほど情熱的だ。  レナードがいつだったか、そんなことを口にした。クラウス自身を情熱的だなんて表現したのは、レナードだけだった。  世間はクラウスに対し、慈愛の貴公子なんてフレーズを纏わせる。物静かで穏やか、いつも微笑みを絶やさず控えめで、浮き名なんてものは想像もできない。だけど、実際のクラウスは、表だって主張しないだけで確固たる意志を貫いているし、焼け付くような熱情を(いだ)くこともある。  レナードだけが、クラウスのピアノが訴える声を正しく聴くことができる。  最後の指先が鍵盤から離れた。余韻を残した音色が静かに消えていく。  そのとき、レナードが背中からクラウスを抱き締めた。驚きに振り返れば、当たり前に唇が重なる。 「……今回のツアー、なにかあったのか?」  名残惜しい唇が離れた隙に、レナードがささやく。その表情は、なにかを心配しているかのように沈んでいる。 「どうして? いつも通りだよ」 「悲愴を最後にもってきてたろう? しかも第三楽章まで演奏してた。大勢が涙を流していたと報じられてたし、俺も……」  聴き終えて、泣きそうになった。レナードの硬い指先が頬に触れる。その手のひらに頬をすり寄せて目を閉じた。 「クラウス・ノイアー初のワールドツアーで締めに弾く曲としては、不思議だと思った」  華やかな舞台で、余韻に切なさを残すような演奏はこれまでしなかっただろう? レナードが静かに首を傾げた。 「舞台に駆け寄って抱き締めたくなったよ」  そのときを思い出したように、隣に回り込んだレナードがクラウスを包み込んだ。その背に腕を回して、愛しい温もりを大きく吸い込む。 「深い理由はないんだ。本当に……なんとなく、そういうのもいいかな、と……」  それは紛れもない本音だった。ただ、あらためてレナードから指摘を受けたことで、自分自身の感情に焦燥を覚えた。  無意識に自分は――。  黙り込んだクラウスの背中を優しい手のひらが撫でる。泣いてしまいそうだ。  バレないようにゆっくりと息を吸い込み、抱き締める腕の力を強くした。  懐かしい香水のかおり。懐かしい体温。愛おしくてしかたない唯一の……。 「クラウス……」  甘い声が()()にかかり、さっきまでとは温度の違うキスが与えられる。  ネクタイが緩められ、はだけたシャツのあいだから、熱い手のひらがクラウスの肌に触れた。吐息がこぼれる。 「せっかくお気に入りのジャケットだったのに」  早々に剥ぎ取られたジャケットを見送って、そんな文句をつける。 「お気に入りならなおさら、汚さないように脱いでおかないと」  片目を瞑ったレナードの髪をクシャクシャとかき混ぜ、引き寄せた唇に噛みつく。そのまま、レナードのシャツを剥ぎ取ると、その硬い肌がぴたりと重なった。  兄弟同然に育った仲のいい家族。  微笑ましく、ときには心配されるほどに親密な親友。  そんな言葉じゃ表しきれない。クラウスにとっての唯一の存在。それは、ときに吐き気を催すほど甘くて苦しい。 「ベッドに誘っても?」  レナードがクラウスの胸元にキスをする。 「この椅子は、クラウスを抱くのにいささか狭い」 「私もちょうど同じことを提案しようと思ってた」  額をくっつけて笑い合い、奥のベッドルームへと移動する。飛び込むようにベッドに倒れ込めば、すぐさま熱い質量がクラウスにのし掛かった。またたく間に残りの布も脱ぎ捨ててしまう。 「情けないが、この歳になってもクラウスを前にすると興奮が抑えきれない」  熱い芯を押し付けながらレナードがおどける。 「それは、ここに帰る前から準備を済ませた私への嫌みか?」  片足を広げ、わざとらしくその奥を見せつける。いつも通りの自分を必死で思い出しながら、レナードを誘った。 「それなのに、レナードときたらピアノを弾けと言うんだから……」  引き寄せ、その奥にレナードを誘う。 「それは悪かった。それならそうと言ってくれたらいいのに」  焦らすようにレナードがキスをする。柔々と擦りつけられる感覚がもどかしい。 「だから、早くくれと言っているのに意地悪だな」 「欲しくて欲しくて一生懸命ねだってくれるクラウスが好きなんだ」  浅ましく誘うクラウスを閉じ込めたヘーゼルの瞳が細められた。  互いの脚を絡め、何度もキスを繰り返す。セックスなんか二人のあいだでは、ダンスをするくらいの緊張感しかなかったはずだ。それなのに、今はこんなにも愛おしい。  転がったレナードの上に跨がり、その唇を強く塞ぐ。乱れた黒髪を何度も撫でながら、腰を擦り付けた。 「キレイだな」  レナードが伸ばしたクラウス手の甲にキスをする。 「裸で男に跨がってる男が?」 「そう。俺にまたがってくれる美しい男に惚れ惚れするよ。まず光に透けるそのプラチナブロンドが美しい。俺を映したその海みたいに青い瞳も……それから」 「もういい」  しゃべるなと睨んで、その鍛えられた肩を押した。キスを仕掛けながら腰を上げ、その奥を指先で軽くなぐさめる。 「黙って」  そう弁えない命令をすると、クラウスはゆっくり自らの腰を落としていった。愛しい質量がクラウスのなかを満たしていく。 「ぁ……」  耐えきれずこぼれた吐息を飲み込んだ。身体を揺らし、なかから湧き上がる快感に身を任せる。 「レナー……ド……ッ」  緩やかな流れがもどかしく、乗馬のように背筋を伸ばす。奥深くまで刺さったその圧迫感が、さらに熱を高めていく。足に力を込め、レナードの上で激しくダンスを踊る。 「クラウス……っ……ちょっとゆっくり」  歯を食いしばったレナードがギュッと目を閉じた。 「むり……止まらな……ァアッ――」  腹の底から吹き上がった熱が一気に吐き出される。すべての血流が集まったかのように、下腹部がドクドクと脈打っていた。  少し身体を動かしただけで、その繋ぎ目から蜜が溢れる。それは、クラウスが仕込んでいたオイルかも知れないし、レナードから奪った熱かも知れない。  起き上がったレナードが、熱い息を吐き出しクラウスを抱き締める。  一瞬だって離れるものかとばかりに、繋ぎ目を押し付けキスをしながらまたベッドに押し倒された。  レナードに組み伏せられ、腹の奥を突き上げられる。 「あぅ……」  ビクビクと下腹部が痙攣を起こした。まだ、このくらいじゃ満たされない。  折りたたむように身体を押さえつけられ、キスをしたまま体内をかき混ぜられた。緩やかで優しく、次の瞬間には激しく奪い尽くすように。 「クラウス……クラウス、愛している……」  何度も耳にささやかれ、その熱さに身震いをした。  その言葉を嘘だなんて疑ったことはない。それがバックマン家の一人息子の、気ままなままごと遊びだなんて思ったこともない。  だけど、それが一生続くだなんて、そんな馬鹿げたことも考えない。 「私も……レナード、あなたを愛してる……」  この世界の誰よりも。  レナードのためなら自分はなんだってできる。  たとえば、この場所に、ほかの誰かが取って代わるのだとしても――。  何度、果てたのかも思い出せないほど愛し合い、なお、互いを求め合った。いつの間にか窓の外が薄暗くなり、愛をささやく声も掠れている。  やっと離れた身体がなお惜しくて、体液が冷める暇もないほど、ひたすら肌をくっつけた。  ベッドサイドのモニターに呼び出しのランプが光る。レナードが応答ボタンを押した。夕食はどうなさいますかと、控えめな声が聞こえる。あと一時間後に。そう頼んだレナードが通信を切った。 「ディナーの支度をしようか。うちの料理長がクラウスが帰るからと張り切っていたからな」  差し出された手を取ってバスルームに向かう。馬鹿みたいに広い浴槽に二人で使って、また何度もキスをした。  レナードが手早く身支度を調えていく。  ああ、これで終わりだ。震える指先がネクタイを締め、ジャケットを羽織る。もう、素肌は見えやしない。  レナードの背中を見つめたクラウスは、ゆっくりと深呼吸をした。 「なぁ、レナード」  軽やかなレナードがすぐに振り向く。その顔を真っ正面に見つめて笑いかける。 「結婚パーティのピアノ演奏。リクエストはあるかい?」  その瞬間、レナードの周りが凍り付いた。 「……弾いてくれるのか?」 「もちろんだ。ワールドツアーに出発する前……アレンの屋敷に立ち寄ったときに、ちょうどその話を聞いてね」  レナードの父であるアレンは、クラウスにとっても親同然だ。 「マーサのサロンで演奏を頼まれて行ったんだ。そのときに、やっと家長を押し付けられるとアレンがうれしそうに教えてくれたよ」  レナードが静かに話を聞いているのが妙におかしかった。いつもなら、自分より優先して会いに行ったことを拗ねるだろうに。そこには、クラウスに対する後ろめたさのようなものが見え隠れしているように思えた。 「早く準備を始めないと、レナードに恥をかかせてしまうといけないだろう?」  ぶっつけ本番で舞台に立ったとしても、そんな無様は晒さない。だけど、今回ばかりは心の準備が必要だった。 「クラウス……俺は……」  珍しく言いよどんだレナードに、穏やかな顔を見せてやる。大丈夫だからと。これは当然のことで、レナードが気に病むことじゃない。クラウスだって、とっくの昔に覚悟をしていたことだ。 「それにしてもシュティフィ嬢もこんなに待たされて気の毒に」  レナードの婚約者をあげて、親友の不義理をなじった。レナードが二〇歳そこそこで婚約をしてやっと今だ。年下のシュティフィ嬢も二〇代を終えようとしている。散々せっつかれていただろうと、想像に難くない。家を通じて抗議することもできただろうに、シュティフィ嬢は、まだ未熟だからと言い訳をするレナードを静かに待ち続けたのだ。  この結婚を先に延ばすのはもう限界だと、誰もが焦りを隠せていなかった。 「俺はクラウスを愛してる。それでも?」  レナードの硬い声が響く。酷い男だ。それでも、その言葉がただ愛おしい。 「私もだよ。それでも、これは必然だ」  バックマン家の直系男子はレナードひとりだ。国内屈指の血筋をここで絶やせるはずがない。レナードだって分かっているはずだ。  レナードが苦しげに顔を歪めた。 「……選曲は、クラウスに任せる」 「わかった。最高の演奏を聴かせるよ」  レナードがほんの少し身体を揺らした。きっと、クラウスに近づくことを迷ったのだ。その瞬間、自分たちの関係が変わったように感じた。  兄弟同然に育った仲のいい家族。  そんな関係に押し込められたのだ。 「そうだ。私も一八区にアパートを借りたんだ。ディナーのあとはアパートに帰るよ」  そこで、レナードが爆発した。近年ずいぶんと落ち着いたレナードの、かつての短気を思い出す。そう、殴られた瞬間に、もう殴り返しているような。もっとも、レナードに手を出すような級友は存在しなかったが。 「ここは、おまえの家だろう!?」  そう、アレンたちがまだこの家で暮らしていて、レナードとも兄弟のように育った家だ。 「もちろん。私にとっては唯一の故郷(ふるさと)だよ」 「だったら……!」  出て行く必要などないはずだ。まくし立てるレナードが落ち着くのを待って口を開いた。 「私の育った家だよ。だけど、これからはシュティフィ嬢の家にもなる。そこに住み続けるほど厚顔ではないつもりだ」  そもそも、どんな顔をして仲睦まじい二人を見ろというのだろうか。たとえ覚悟をしていたとしても、それは想像しただけで息ができなくなってしまう。 「ここはレナード、きみたち家族の家になるんだ」  そして、いつか里帰りするクラウスを笑顔で迎えて欲しい。  レナードはもう反論しなかった。しても無駄だと悟ったのかも知れない。いつだって、クラウスはレナードを言いくるめてしまうのだ。レナードがクラウスに甘いことを知ったうえで――。 「愛してるよ、レナード。幸せになって」
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