春の逢瀬

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 ノートPCの前に座った男はさっきから落ち着かない素振りを繰り返している。すでに完了している企画書スライドをめくってみたり、いくつかの開いた関連サイトを意味もなくスクロールしてみたり、全く関係ないリンク先に飛んでみたり。ちょっと目敏い人からすれば、作業に集中している事務所内の他のスタッフとの差がハッキリわかる。もっとも、その部屋の中に、男の手持ち無沙汰加減を観察するほど有閑(ひま)な人間は、彼自身を除いて誰一人いないのだが。  と、男の眼がどこかに焦点を結んだ。マウスに乗せていた手が素早く左の胸ポケットを探る。微振動するスマートフォンを取り出した男は、素早い操作で届いたメッセージををディスプレイに呼び出した。 「お食事会が終わりました。今から電車に乗ってそちらの駅まで向かいます」  着信時間は十三時三十分。さきほどまでとはうって変わり全身に精気を(みなぎ)らせた男は、見違えるような速やかさでデスクトップを整理して、PCをログアウトする。手近だというだけの封筒と椅子の背中に架けてある上着を流れる動作で引っ掴み、入口横の壁に架けてあるホワイトボードに『西口 十五時帰社』と殴り書き。誰に聞かせるでも無く、不明瞭な声で出掛けの挨拶を言い放って、男は部屋を後にした。その間、およそ二十秒。  上着と封筒を小脇に抱え、右手に持ったスマートフォンを歳不相応な器用さで操りながら、男は一分と経たずオフィスビルのエントランスを飛び出してきた。待ちあわせ場所を短い文章で打ち込み、送信ボタンをタップする親指。いつもより三割増し力がこもっている。  一度だけ立ち止まった男は、周りを気にするように左右を一瞥すると、駅に向かって走り出した。  片側四車線の街道を跨ぐ歩道橋。  男が駆け上がる階段の先に、歩いてくる黒いダウンジャケットが見えた。こころなし弾んだ足取りの小柄な女は、遠目には二十代に見えなくもない。が、若く見えるのは男と同じ。実のところ、ふたりは同年輩だ。  その姿を男が認めるのとほぼ同時に、女は荷物を掛けていない左手を腰の辺りに掲げて、ひらひらさせる。お返しに、と男も右手を上げた。  歩道橋半ばで合流したふたり。男は女の腰に軽く手を廻し、くるりと向きを代えさせる。女が親しげに口を開いた。 「早かったわね。汗かいてる」  そうでもないよ、とでも言うように、男は顔の半分をゆがめて笑った。少しだけ、息が荒い。  春一番の陽光は頭上の高速道路や高層ビルに阻まれ、ふたりの足元に届かない。シルエットがコントラストの影の部分に馴染んでいる。 「食事会の(あの)あと何人かのお母さん方がこっちの方に出てくるって言って私も誘われたんだけど、お断りしちゃった。おんなじ電車に乗ってたみたいなのにね」  階段を降りながら、弾んだ声で女が話しかけている。午後の駅前。だが人通りは意外に少ない。 「もしかして、逢っちゃうんじゃない?」  大袈裟に周りを気にするフリをしながら男が返す言葉に、女が悪戯っぽく笑った。 「大丈夫。こんなとこで地上に出てくるお母さんたちなんて、いないから」  鼻の横に縦に皺が入っている。  通行人の多くが目指すこの地区最大の郵便局を素通りし、ひと組の中年カップルは、歩道の先に控えめに覗くドトールの看板を躊躇無く目指す。 「それほど便利がいい訳でもないのに、なんでいっつも混んでるのかしら?」  コーヒーを注文しながら女が肩越しの男に話している。女の腰に軽く置いた左手の指を意味ありげに動かすのに余念の無い男は、僕らみたいのがたくさんいるんじゃない? などといい加減な返答で応じる。  もう、と腰をくねらせて手を払う女。笑っている。どうやらここの勘定は彼女持ちらしい。  地下の禁煙ルームの中央、十人くらいが座れる大きめのテーブルの一角に、ふたりは並んで腰掛けた。右側に座る女の前に男が、持ってきたコーヒーをサーブする。 「そのお母さんたちがね、私のこと宇宙に行けちゃうって言うの。ね、なんのことだかわからないでしょ」  女が楽しげに、今日のお食事会での出来事を男に話して聞かせている。親しげな笑顔を浮かべながら、男が続きを促した。 「いっつも四時間くらいしか寝てないでしょ。でね、そのお母さんは、今日も八時間ぐっすり寝てきたから頭がスッキリしてますってね。それで、私」  女の台詞を途中で引き取って、男が続けた。 「そんなに寝たら調子狂っちゃう、だろ」 「そうなの。八時間も寝たら、私ゼッタイ薬飲んじゃいます、頭痛薬って」  自分の言葉で女が笑い始め、男も釣られた。 「あとね、その方も他に二年生のお子さんが居らっしゃるらしいんだけど、年子だから二人目が生まれたばっかりの頃はたいへんでたいへんで、なんてお話から、なぜか私の出産の時期の話になっちゃって。ホラ、ふたりとも向こうで産んだから誰にも見てもらえなかったじゃない。もうひとりのひとはなんにもしてくれないし。だからね。産んだ翌日にも、……二ガロンだから七キロかな、とにかくそんな荷物を両手に一つずつ持って三階の部屋まで運んでましたよって」  愛娘の成長振りを見つめるような顔で、男は女の話を聴いている。適宜に相槌を挟むことも忘れない。肉体労働の欠片も感じられないしなやかな男の右手は、女の膝の上で彼女の左手を包み込み、薬指の指輪を見えなくしている。 「そんなハナシしてたら、いつの間にかね。コウくんママみたいに、私なんにも出来ないんですって雰囲気の細ぉいたおやかそうな、そのくせ実はスゴイ力持ちで何でも出来ちゃうスーパーなヒトは、いつかきっと宇宙に行っちゃったりするのよ。なんて話になっちゃっててね。もう、ワケわかんないわよね」  ざわついた店内、湯気の立つマグカップの前で笑い合う罪の無い会話をよそに、テーブルの下で、まるで別の生き物であるかのように絡まる指と指。笑顔の途切れない男の目が、くるくるとよく動く茶色がかった彼女の瞳と、その目元に刻まれた細かい年輪を追っている。
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