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石橋沙織は早川颯太と二年前から同棲している。
今朝、些細なことで口論になった。
床に脱ぎ散らかしたままの颯太の服を見て、イライラが限界に達したのだ。
着替えを終えてテーブルに着こうとする颯太に、沙織が指差して言った。
「颯ちゃん、それ! 脱いだらちゃんと洗濯かごに入れてっていつも言ってるじゃん!」
「あ、ごめん」
颯太は慌ててそれを拾い集める。
そこで終わっておけばよかったのだ。
「一昨日も言ったよね?」
「……ごめん」
再び謝る颯太に、沙織は更に被せて言った。
「いつもいつもごめんって、取り敢えず謝っとけばいいとか思ってる? それでまた同じことするって、私のことバカにしてるの?」
言い過ぎだとわかっていながら、止められない自分がいた。
「悪いと思ってるから謝ってんだろ! 謝るしかねーじゃん! 謝んないほうがよかったのかよ?」
「そんなこと言ってんじゃないじゃん!」
颯太の言う通りだ。謝らなかったらもっと腹が立っていたと思う。
颯太は朝食に手もつけないまま、仕事に出掛けてしまった。
沙織は大きな溜め息を吐いた。
イライラの原因は……生理前のアレだと思う。
窓の外は、清々しい天気なのに、沙織の心はどんより曇り空だった。
――朝から酷いこと言っちゃったな。
沙織は後悔の念に駆られた。
手付かずの颯太のサラダを冷蔵庫に仕舞い、一人で朝食を済ませた。
洗濯機を回している間に、洗い物をして掃除機をかける。家事は得意なほうだ。
会社員の颯太と、販売店員の沙織は、休日が殆ど合わない。それを知った颯太から、付き合うと同時に「一緒に住まないか?」と言われ、沙織は躊躇なく「はい」と返した。
恋愛には勢いが大事だ、と沙織は思う。慎重になりすぎて行動に移さないよりも、行動して失敗する方が、後悔もなく自分自身が納得出来ると思うのだ。
勢いで始めた同棲だったけれど、颯太とはうまくいっている、と沙織は思っている。
他人同士が一緒に生活するのだから、食い違いは仕方のないことで、それはお互い擦り合わせていくしかない、という考え方だった。
勿論喧嘩もするけれど、だからといって、颯太のことを嫌いになるわけではない。
しかし、今朝の口喧嘩は、喧嘩というより、沙織が一方的にイライラをぶつけただけだ。
罪滅ぼしのつもりで、今日は颯太の好物を作って帰宅を待とうと考えた。
洗濯物を干し終えると、沙織は買い物に出掛けた。
颯太の好物は、ハンバーグだ。ワンプレートに、こんもりとライスを盛り、ハンバーグにエビフライとナポリタンとサラダを添える。お子様ランチのようなそれを、颯太はいつも「俺様ランチ」と呼んで嬉しそうに食べるのだ。
帰宅して昼食を済ませ、少し部屋の片付けをしてから、夕食の準備に取り掛かかった。後は颯太の帰りを待って、ハンバーグを焼きながら、エビフライを揚げるだけ。
さっきまで晴れていた空は、急に雲行きが怪しくなってきた。沙織は慌てて洗濯物を取り込んだ。
紅茶を淹れてソファーに腰掛け一息つくと、パラパラと雨音が聞こえてきた。ベランダに出ると、雨粒が駐輪場の水色の屋根に、水玉模様を作っている。どんよりした雨空を見ていると、今朝のことを思い出して、沙織は憂鬱な気分になってきた。
ふと思い立って、玄関に向かった。案の定、傘立てには颯太の傘が残っていた。
時計の針は、五時を少し回っていた。颯太は電車に乗る頃だろうか。変なところで節約する颯太は、おそらくコンビニで傘は買わないだろう。ちらちらと窓から外の様子を窺っていたが、徐々に雨足が強くなってきたのを見て、沙織は駅に向かった。
傘に落ちる雨音を聞きながら考える。
――何よりもまず、颯太にあやまろう。
ごめん、と謝る颯太に、あんな酷い言い方をしたのだから……。許してもらえるまで何度でも謝ろう、と決めた。
駅に到着すると、ちょうど電車が到着したようで、改札から続々と人が出てきた。
――あ!
沙織が見つけるのとほぼ同時に、颯太が手を上げた。
「沙織、迎えに来てくれたんだ」
颯太は少し眉を上げてから柔らかい笑顔を見せた。
「颯ちゃん、今朝は――」
「お疲れ様です」
遮るように後ろから声がした。
颯太の後輩の井上だった。
「おう、井上。同じ電車だったんだ」
「いいっすねぇ……お迎え」
井上は羨ましげに颯太に言ってから、空を見上げた。
「てかお前も傘忘れた?」
颯太は沙織から受け取った傘を、井上に差し出した。
「え、いいんすか? めちゃくちゃ助かります! てか実は口実だったりして……」
井上は丁寧に礼を言って背を向けた後、振り返ってニヤニヤしながらもう一度会釈した。
沙織が広げた傘を颯太が持ち、寄り添って歩く。
沙織は言いそびれた言葉を口にした。
「颯ちゃん、ごめんね」
颯太は黙ったまま沙織に目を向けた。
――やっぱり怒ってる、よね?
「お前生理前だろ。機嫌悪過ぎー。まあ一番悪いのは俺だけどな……」
颯太は苦笑いしながら、沙織に紙袋を差し出した。沙織の好きなスイーツ店のものだった。
「これで機嫌直して」
コンビニで傘は買わないくせに、その何倍もするスイーツを手にはにかむ颯太に、胸がキュンとした。
沙織は傘を持つ颯太の手首を掴んで、引き下げた。
傘に頭を押されて颯太が身を屈めると、沙織は顔を傾けキスをした。
「――ッ!」
傘の上で雨音が弾んだ。
【完】
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