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88.正しい人
ツイッターに西村紅葉の写真が晒された日の夜、オーベルジュ木那佐の熊埜御堂シェフから恭明に直接電話がかかってきた。
事件のことは彼の職場でも噂になり、ツイッターで紅葉の過去が拡散されているのも知っているようだった。紅葉はまだ話せる状態にないと恭明が説明するとまた電話すると言って切ったらしいけれど、熊埜御堂シェフは紅葉の容態を心配したのか、それとも自分のところに捜査が飛び火するのを怖れたのか。
紅葉に関する電話やメールが続いたのはほんの数日。紅葉の個人情報を晒したツイートが削除されると表面的には落ち着きを取り戻し、ザワザワした空気を引きずっているのは紅葉と関わったティーズアクトの人間だけになった。それにはもちろんメゾン・ド・アリスのスタッフも含まれている。
わたしは頭に付きまとう不穏な空気を払うように恭明のマンションで一緒に暮らす準備をすすめた。紅葉から電話があったのは、ホームセンターで日用品の買い物を終えて恭明の車に乗り込んだときだ。
『楓ちゃん、暇なんだけど話し相手になってくれない? 退屈で死にそう』
彼女は甘ったるく気怠い声を出し、我儘な本性を隠そうともしなかった。
『警戒しなくても平気よ。立つのも座るのも痛くて幼稚園児より非力だから』
わたしは恭明と相談し、そのまま車で紅葉の入院している病院へ向かった。祖父が入院していたのと同じT県立中央病院だ。
四人部屋の病室のドアの前に立つと、左手を吊った二十歳くらいの女の子が友だち二人を連れて部屋から出てきた。わたしと恭明が脇に避けると、「すいません」と頭を下げて通り過ぎる。
「誰だろうね」
ヒソヒソ声が耳に入り、わたしが振り返ると彼女たちはそそくさと廊下を歩いて行った。開けたままのドアの内側から「楓ちゃん」と紅葉の声がする。中に入ってすぐ左のベッドに、背を三十度ほど起こして紅葉は横になっていた。向かいと隣のベッドは空っぽで、斜向かいの窓際が女の子のベッドらしい。わたしの後に続いて恭明が病室に入ると、紅葉は楽しそうに口角をあげた。
「かわいい子たちでしょ」と紅葉は言った。
「さっきの女の子のこと?」
「私、ちょっとした有名人なの。知ってるでしょ、ツイッターでどんなことになってるか。あの子たち、私が聞いてるのわかってて平気で話すのよ。若い子ってバカよね。『西村紅葉が同じ病室にいる』とかツイートしちゃうんだから」
「紅葉さん、さっきの子たちに何もしないよね」
「さあ?」
彼女は思わせぶりに言ってわたしの反応を楽しんでいるようだった。
「冗談よ。あんな子どもからかっても何の得にもならない。見舞いに来るのもくたびれた母親とさっきみたいなチンケな子どもだけ。相手にするだけ時間の無駄」
紅葉は体を起こそうとし、痛みで顔をしかめた。背を支えると「ありがとう」と紅葉は見慣れた笑顔をわたしに向ける。
「今回はさすがに死ぬかと思った。自分で刺したくせにあの人ガタガタ震えるのよ。逃げもせずに自分が刺した傷を必死で押さえるの。おもしろいわよね。泣きながら『ごめん』って謝るなら刺さなきゃいいのに。あの人たぶんもうダメね。仕事もなくなるだろうし」
「あの夜、何があったんですか?」
「何も。奥さんとよりを戻したらって言っただけよ」
あの人何も分かってないわ、と紅葉はたいくつそうな顔で言う。
「オーベルジュでは働けないだろうけど僕と結婚して小さなカフェを開けばいいなんて言うの。一緒に謝ってあげるから本当のことを小森社長に話せ、録音は僕がお願いして消してもらうからって。
いるのよね、自分の理想や夢が一番正しいと思ってる人。あの人、たぶん私の弱みでも握った気になったんじゃないかしら。私がそんなしけた店やりたいわけないじゃない。だから私は身を引くって言ったの。そしたらここをズブッ」
紅葉は他人事のように自分の脇腹を指差した。
「本当にそれだけ?」
「他に何があるの?」
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