咀嚼

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クチャ……クチャ……  午前0時。枕元に置いたスマホから()(しゃく)(おん)が流れる。SNSにアップされているASMRを、就寝前に聴くのが俺のルーティンだ。  キーボードを打つ音、爪切りの音、耳かきの音、その(かい)(わい)で人気を集める生活音は幾つも有るが、やはり()(しゃく)に勝るものは無い。()しは肉料理。自然の摂理に従い強者が弱者の肉を噛み潰す音は、聴覚の最奥で興奮と鎮静が表裏一体となり、心に絶妙な(あん)(ねい)をもたらす。  俺のルールはただ一つ。眠りに落ちるまで決して画面を見ないこと。暗闇の中で瞼を閉じ、ひたすら耳をそばだてる。 グチュ……グチュ……  再びナイフが下ろされたようだ。今夜の食材は何だろうか。ビーフか?ポークか?チキンか?最近話題のジビエってのも有りだな。 ……ギギギ……ギギッ……    刃先が苦戦している音に変わったぞ。骨から肉を削ぎ落としているのか?そう言えば。職場の近くにスペアリブの旨い店がオープンしたと聞いた。明日さっそく行ってみようか。骨付き肉、旨いんだよな。 ……クチャ……クチャ……  静寂に響く音が想像を掻き立て、生命の源が流れ込んで来る。喰うことは生きること。不安定な社会に身を置く俺にとって、確然たる食欲こそ生きる希望だ。 クチュ……クチュ……グチャ……  今夜は格別だ。得体の知れない興奮が突き上がる。サムネには【鮮度良好。トー横で捕獲した(にっ)(かい)を調理しました】と書かれていたが。歌舞伎町の何処かに老舗と呼ばれる精肉店があるのだろうか。 ピチャ……ピチャ……  焼き加減はレアのようだ。 ――何故だ。いつもと何かが違う。(ぬめ)る音が鼓膜を舐め回し、体の芯が熱くなる。(いん)(よく)(たた)えるソレを手で擦ってやると、ビクッと白濁が弾けた。 ……ああ、眠い。おかげで心地よい睡魔が降りて来た。 ……ヒッ……オネガイ……モウ、ヤメテ……  遠退いていく意識の中で、女性の悲鳴を聞いた気がした。これは、きっと夢の始まりに違いない。 明日はどんな咀嚼音を聴こうか。 END
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