御印

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御印

『これでいつでもみつけだせるね』 幼い俺が踏み入ったそこは、見たこともない花が咲き乱れた場所だった。 真っ赤な夏の夜に攫われた、青い青い遠い思い出。 右手の甲に残る痣だけが俺に残されたもの。 笛の音が、どこかで聞こえた気がした。 ── カタン、 「──何で、」 ……部活動を終えくたびれた身体を引き摺り帰宅した俺は、玄関先に落ちていたモノを見るなり顔を引き攣らせた。薄暗がりの中だったので視認は出来ないだろうが、傍から見ればその目は怯えに揺れ、噛み締めた唇は皮膚が白く変色しており、嫌悪と称するには些か滾るような感情が足りなかった事だろう。 玄関灯に、煌、と照らされた地面に白い狐の面がひとつ落ちていた。何の変哲もないそのお面は、本来目が覗くはずの虚ろな眼窩をこちらに向けて、じっと昏い視線を投げ掛けている。本来存在するはずのない眼球が面の下にあって、明確な意思を持って俺を舐めるように見詰めている気がした。 ただの悪戯と一蹴するには人間らしい揶揄いや悪意の煩雑な感情の残り香は無く、ただただ無邪気な、澄んだ澱みが辺りに満ちている。肌を滑る空気は、ひどく生温かった。 「なんで」 震えた声は思考が停止したかのように同じ言葉を繰り返す、──いや。実際に俺の思考は完全にフリーズしてしまっていた。夏の陽の熱に炙られた路面からの熱気の名残もすっかり消え失せてしまったかのように、生温い空気とは裏腹、半袖のシャツから覗く両腕にはびっしりと鳥肌が立っている。 『悪い事をしたらおきつねさまに連れて行かれてしまうからねえ、いい子にしているんだよ』 『おきつねさまは悪い子をどこに連れていくの?』 『さあねえ、私もそこまでは分からないんだ。ごめんねえ。……でも、おきつねさまは自分の遊び相手が欲しいんだ。やんちゃをする子供が大好きなんだよ、おきつねさまに気に入られたら二度と帰って来られなくなる』 『ふーん……』 ──幼い頃の祖母との会話が脳裏に蘇る。信心深く朗らかだった祖母は小さな俺に、悪い事をしたら狐の面を被った神様が迎えに来て、攫われたまま二度と帰って来られなくなると何度も何度も言い含めていた。その時の祖母は柔く細めた目尻に有無を言わせぬ光を宿しており、普段は見せない眼差しだった事を良く覚えている。 俺が何をしたんだ!? 心の中で絶叫するも、これと言った心当たりは思い付かない。思い当たる節が無い事が余計にゆく宛の無い恐怖を加速させていた。 「ひっ、」           ──……ふと。背後に、なにかの気配を感じた。その気配は呼吸の音すら無く、俺の足元に伸びる影だけを寄越して、静かに佇んでいる。 誰かと問う事すらままならず、拒否とも懇願ともつかない短い声と共に足が竦んで動けなくなる俺に、影が一歩ずつ距離を詰めてくる。 影が一歩踏み出す度に、頭蓋の中を笛の音が反響する。 やめろ、来るな。来るな。来るな来るなくるな、 肩に、冷たい手が触れた。 「つ  カ  ま  ェ  た」 「や  ッ  と  あ  え  タ  ね」
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