第一章 あなたを見ていた

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第一章 あなたを見ていた

 僕は彼女を〈水やりの君〉と心の中で呼んでいた。最初、その人は外部の業者の人だと思っていた。  ここは建設業界最大手、昭和建設株式会社の東京本社。その巨大なビル群は中庭を取り囲むような構造になっていて、中庭には色とりどりに花たちが咲き乱れる広くて本格的な花壇があり、彼女は朝晩青い作業服に着替えて、その花壇の草取りをして水やりをするのが日課になっていた。  社員たちはみな忙しいから、花壇の花に目を向ける者は少ない。そういう僕も彼女には気を取られても、花は全然見ていない。無粋な点ではほかの社員たちとたいした違いはない。  街路樹の手入れなどと同様に花壇の草取りもかつては外注していたそうだ。経費削減のために現在は外注をやめた。ただしどの部署の人が花壇の管理をしてるのかはなかなか分からなかった。  彼女は二十代前半に見えた。色白で、小柄ではないが顔は小さい。髪型はポニーテール。知り合いの社員から話しかけられたらはにかみながら返事するが、自分から誰かに話しかけるのを見たことがない。一人でいるのが好きな内気な人なのかもしれない。とはいえきれいで清楚な人だから恋人がいないことはないだろう。  ここ数ヶ月の僕の日課は中庭のベンチに腰掛けて彼女の作業をさりげなく見ながら、彼女に告白してOKをもらう夢想をすること。でも無理だろう。僕はイチゴのヘタを取ってそのヘタの方を口に入れて、なんか変だと悩んでしまうようなぼんやりした男。彼女が振り向いてくれるとは思えない。  僕は入社三年目の二十五歳。恋をするのは中学生のとき以来十年ぶり。十年前の復讐劇は復讐としては大成功したけど、復讐を成し遂げた父も兄も妹も、そして僕自身もそれぞれ心に変調をきたした。恋ができるようになっただけ僕の心はかなり回復してきたと言えるのかもしれない。  作業が終わり彼女がいなくなってしばらくしてから、僕はおもむろに立ち上がり自分の勤務場所へと急ぐ。季節は秋。灼熱の夏が過ぎ、寒い冬が始まるまでの一年の中で一番過ごしやすい季節。天気は今日も晴れ。勤務の開始時刻までまだ少し時間があるが、気分のよかった僕はいつのまにか駆け足になっていた。  次の日の朝、いつものように中庭のベンチに腰掛ける。彼女はまだ来ていないようだ。スマホでニュースをチェックしながら時間をつぶしていると、誰かに声をかけられた。  「花が好きなんですか?」  顔を上げると水の入った大きなじょうろを重そうに持つ水やりの君の顔が僕の目の前にあった。顔だけでなく、声もきれいだったんだなと知ったが、突然のことに脳がフリーズして何も答えられずにいると、  「いつもベンチから花を見てるので、てっきりそうかと。突然話しかけて失礼しました」  花を見てたんじゃなく、あなたを見ていたんです。  ヘタレな僕にそんなセリフが口にできるわけなかった。それでもそれに負けないくらいの大胆さをそのとき僕は発揮することができた。  「僕は総務課の佐野です。君は?」  「経理課の新入社員のオギです。総務課の佐野歩夢さんの噂は何度か聞いたことがあります。アメリカに留学してMBA(経営学修士)を取得されたとかで、通常入社十年目でなれる主任に入社三年目で抜擢されたそうですね。佐野さんは私たち若手社員全員の希望の星です」  僕はずっと優秀な兄と比べられてきたから、褒められるのが苦手だ。それより何より僕が入社三年目で主任になれたのは自身の実力はまったく関係ない。MBA取得だのアメリカ留学だのどころか、アメリカに行ったことさえないのだから。僕の主任抜擢はただの情実人事。そう打ち明けたら、今まで希望の星だと思い込んでいただけに彼女は幻滅するだろう。僕は何も話せなくなってしまった。  「作業があるので失礼します」  水やりの君が花壇の方に戻っていく。僕の心はしばらくここからどこへも行けなかった。
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