2016-2017 冬-春

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2016-2017 冬-春

 毎晩、眠りにつくたびに同じ夢を見ているような気がした。真っ暗な空を、一筋の明るい光が流れていく。目が覚めた時はその景色しか覚えていないけれど、彼女はその夢を見るたびに【過去の自分】との繋がりを感じていた。あの光を掴むことができれば、きっと――。 *** 朝は看護師の声とカーテンが開く音で、眠りの世界から意識を取り戻す。目蓋は重たくてなかなか起きることもできないけれど、血圧や体温を測らなくてはと看護師に急かされて【彼女】はなけなしの力を振り絞って目を開けるよりも先に体を起こした。彼女が起き上がったことに安堵した看護師は慣れた手付きで血圧を測定していく間、彼女は看護師の手元だけをじっと見つめている。彼女は決して、顔をあげようとはしない。看護師が顔色を見ようとチラチラと視線を送ってくることに気づいているけれど、彼女は頑なに頭を下げたまま。それが終わったら運ばれてくる味の薄い朝食をゆっくりと少しだけ食べて、週に何度か行われる採血に備える。その時も、彼女はされるがままになっていて、体から抜かれていく自らの赤い血だけを見つめていた。 「やっぱり貧血が続いてますね」  一時間ほどで血液検査の結果が出るので、それを持って白衣を着た医者がやってくる。彼女は渡される検査結果を見てその言葉に頷き、処方された鉄剤を飲んだ。集中治療室からこの一人部屋の病室に移って来てからずっとこの薬を飲んでいるけれど、体は動かすたびに頭がふらつくしすぐに息切れしてしまう。本当に薬は効いているのかな? といつも不安になってしまう。けれど、彼女はそれを誰かに相談することはしなかった。  薬を飲んだ後、しばらくの間、ベッドに横になりながらぼんやりと天井を見つめる。そうしているとあっという間に時間はお昼になっていて、また運ばれてくる昼食を黙々と、ほんの少しだけ食べる。いつの間にか食欲というものもなくなってしまったみたいであまり食事をとらなくなった結果、彼女の体はみるみるうちに痩せてしまった。その腕はまるで細い棒みたい。食事が終わったら看護師が車椅子を持って迎えに来る。 「武田さん、リハビリの時間ですよ」  彼女はその言葉に頷き、ベッドからゆっくりと車椅子に乗り移った。今、彼女の体は手すりにつかまって歩くことさえままならなくて、移動にはこれが欠かせない。だから、どこかに行こうと思ったら人を呼ばなければいけない。あまり他人に迷惑をかけたくなくて、彼女は自ら進んで病室から出ようとはしなかった。彼女がここから出る時はトイレに行きたいときか週に数回行われるリハビリの時だけ。看護師は彼女の膝に赤いチェック模様のブランケットをかけて、ゆっくりと進みだしていた。 「武田さん、ゆっくりで大丈夫ですからね。慌てないように、転ぶのが一番危ないんですから」    だから、少しでも早く一人で歩けるようになりたい――そう思って懸命にリハビリを行うけれど、なかなか目覚ましい進歩が見られないままだった。手術の影響で運動機能にも後遺症が残ってしまって、まっすぐに立つことも難しい。歩行器に腕を乗せてゆっくり足を動かそうとするけれど、頭から発信されている信号は上手く伝わっていないみたいで、足をあげるのも上手くいかない。ゆっくり、すり足をするみたいにしか前に進むことができなかった。気持ちが焦っているのがリハビリ担当の技師にも伝わっているみたいで、彼は落ち着かせるように「大丈夫ですよ」と柔らかな声を出していた。その気遣いが彼女にはまるで針でさされるような苦痛だった。 おでこに流れる汗を拭おうと顔をあげた時、技師の顔を見てしまった。彼女は大きく目を見開く。次の瞬間、彼女はその場に崩れ落ちるように倒れてしまっていた。呼吸がどんどん浅くなって、胸が苦しい。誰かが医者を呼ぶ声が聞こえてくる、彼女は今見たものを振り払いたくて目をぎゅっと閉じた。  腫瘍を摘出する手術を終えた後、彼女は一週間も目覚めることなく集中治療室の中で眠り続けた。手術は成功したはずなのに……とみんなが不安になり始めた頃、ようやっと彼女は意識を取り戻した。蛍光灯の光がまぶしくて目をしかめ、うめき声をあげる彼女に気づいた看護師が「武田さん?」と名前を呼ぶ。彼女はゆっくりと瞼を開けた、誰かが覗き込んでいるのは分かる。けれど、その【顔】が見えなかった。まるで薄いベージュ色で塗りつぶされたみたいに見える。そして、分からないのは顔だけはなかった。ここがどこなのか、そして自分はいったい何者なのか。自分を取り巻くすべての事が分からなくて、体がカタカタと震え始める。 「武田さん? 大丈夫ですか?」  焦ったような声が聞こえてきた。周りは騒がしくなって、みんな口々に「たけださん」と言っている。けれどその意味が分からなくて、終いには彼女は叫び出していた。まるでこの世界が終わってしまうことを知ってしまったかのような、絶望感に満ちた絶叫。パニックを起こしていると判断した医師により鎮静剤が投与され、彼女は再び意識を失った。長い長い眠りにつき、再び目を覚ましたのは数日後のことだった。 「……大丈夫ですか?」  Vネックの青い服を着た男の人が彼女を覗き込むように屈んだ。彼女はびくりと一度震えるけれど、以前のような取り乱し方はしていない。彼は一定のトーンで彼女に話しかける。 「腫瘍の摘出手術をしましたが、それは覚えていますか?」  彼女は首を横に振る。まるで元々答えが分かっているのか、彼は息を吐く。 「名前はわかりますか?」 「……名前?」  彼女は記憶を遡ろうとするけれど、思い出せることは何もなかった。まるで頭の中の物がすべてなくなってしまったみたい。彼女はとても小さな声で「わかりません」と答えた。分からないのは名前だけじゃない、年齢も、出身地も血液型も聞かれたけれど分からないまま。家族だという人の写真も見せられたけれど、そこに写っている人が何者なのか、それを判別することができなかった。彼女は男性の頭を見る。やっぱり、誰を見ても、その相手の顔が分からないままだった。  男性は医者で、彼女に一から説明してくれた。彼女の名前が【武田 美緒】であること、彼女の脳内に腫瘍があり、摘出する必要があったこと。病理検査の結果、腫瘍は悪性であり、脳組織への浸潤があったため全てを取り除くことができなかったこと。これからさらに治療を重ねる必要があること。今、彼女が自分のことすら覚えていないのはその手術の影響で、記憶障害を引き起こされたせいだろうと医者は話していた。 「……治るんですよね?」  忘れてしまったものすべて、いつか思い出せる日がくるのだろうか。すがるように問うと、医者は首を横に振った。 「はっきり申し上げますが、現時点ではわかりません。どこまで影響を及ぼしているのか、治ることがあるのか……今の医学では難しいかもしれません」  彼女は目を閉じた。どれだけ記憶を辿ろうとしても、そこは空っぽで何も残っていない。愕然としている彼女に、医者は先ほどと同じトーンのまま「他に、どこか変なところはありませんか?」と尋ねた。唇を噛み何か言いたそうにしている彼女の言葉を、男性は待つ。聞き取ったその言葉は衝撃的な物だった。
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