2016 秋 -3-

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「いつか私にも好きな人ができたり、彼氏なんてできることがあるのかな? 普通の子みたいに」 「鈴奈ちゃん……」 「本当は普通に学校に行って、もっと友達と遊んだりして、大人になったら好きな人と一緒に暮らしたりなんてして。私、みんなみたいに普通に、普通に大人になりたい。みんなと同じことだけしたかった。病気になんてなりたくなかった」  彼女が小さな胸で感じているこの大きな痛み、美緒にはよく分かった。鈴奈が今まで胸に押し込んでいた本音に、軽々しく「大丈夫だよ」なんて言葉をかけることはできない。美緒にもその痛みは覚えがあったから。 「私も同じこと考えたよ」  美緒の声は少しだけ震えていた。でも背筋をぐっと伸ばして、それを鈴奈に気づかれないように視線をあげた。顎のあたりに鈴奈の不安そうな視線が刺さるのが分かる。それを少しでも和らげるために、美緒は無理やり胸を張る。 「でも、私は絶対に負けない、生きるって決めたの」  でも、俊に伝えたこの気持ちだけは揺らぐことがないように、自分に言い聞かせるように口を開く。 「たとえこれから先どんなことが起きても、絶対に病気になんて負けない。私は、私の事を支えてくれる人たちのために、絶対に――そう決めたの」  鈴奈をちらりと見ると、目尻のあたりに涙が浮いていた。瞬きをすると零れ落ち、鈴奈はそれを手の甲でぐっと強くぬぐう。 「美緒ちゃんってすごいね」  彼女の表情は和らいでいくのを見て、美緒はほっと胸を撫でおろした。けれど、不安を吐き出して落ち着いてきた鈴奈とは対照的に、美緒の頭には不安が渦巻きだしている。まだ幼い鈴奈の手前、偉そうなことを言ってしまったと後悔し始めていた。 「美緒ちゃん、戻った方がいいんじゃない? 明日、手術なんでしょ?」 「う、うん。私、行くね」  美緒が「バイバイ」と手を振ると、鈴奈はいつもの明るい笑顔を見せながら「またね」と答えた。鈴奈が次に出会う『美緒』は、果たして今の美緒のままなのかな? 美緒は彼女に、手術の後遺症の話をしてなかったことを思い出した。  病室まで向かう足が震え始める。明日手術だと考えれば考えるほど、ここから逃げたしたいくらいの恐怖が大きな波みたいに何度も押し寄せてくる。病気になんて負けたくない、その気持ちと同じくらい、怖い事があった。手術後の事が何も想像できなくて、手まで震え始める。こんな時に俊がいてくれたら、どれだけ心強かっただろう? いや、でも……彼でも美緒のこの不安を取り除くことができたかな?   美緒はその日、食事をろくにとることができなかった。ほとんどを残してしまって、様子を見に来た看護師は翌日に迫った手術が不安なんだろうと決めつけて去って行く。きっとあの看護師には、美緒が感じている恐怖を理解することはできないに違いない。眠ろうと目を閉じても、真っ暗な世界が恐ろしくてすぐに目を開けてしまう。美緒は浅い呼吸を繰り返しながら、便箋セットを取り出していた。可愛いデザインの便箋に、まるで書き殴るように手紙をしたためていった。 — 本当は手術なんて受けたくない、記憶がなくなるのが怖い。俊の事も、お父さんお母さんのことも、お姉ちゃん、友達、今までの事全部忘れるなんてイヤ。私は私のままでいたいのに、どうしてこんなことになっちゃったの? 俊がいてくれたらよかったのに。最後にもう一度会いたかった。 約束、守れないかも。本当にごめんね —  美緒はそれを封筒に入れて、ベッドを抜け出しポストまで駆け足で向かってそれを投函した。それと同時に、強い後悔が震える美緒の体を襲う。こんな手紙、書くんじゃなかった。俊だってこれを読んだら、驚くに違いない、いや、がっかりするかもしれない。だって約束したのに――美緒は慌てて手紙を取り戻そうとポストに手を突っ込むけれど、手は入り口のところで引っかかって奥まで届かなかった。指先は封筒ではなく、空にばかり触れる。美緒は諦めて、その場にへたり込む様に座った。コンクリートの床はとても冷たくて、まるで氷の上に座っているみたいだった。  優しい明かりがさしこんでいることに気づいた美緒は顔をあげた。窓の向こうには満月があって、美緒を照らしている。美緒は、幼かったころのことを思い出す。こんな晩は、必ず俊に会うことができたのに。でも、俊はここにいない。 「俊、会いたいよ」  その想いを口に出すと、堪えきれなくなった涙がどんどん溢れてきた。俊と別れたあの日、タクシーで泣いた以来、いやそれ以上に美緒は声をあげて泣きじゃくった。月の周りには星影もなく、ひとりぼっちで浮いているそれがまるで自分自身のように見えた。
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