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 一回深呼吸をしてから、裕斗は玄関のドアを開けた。  友斗がぎこちない笑みを浮かべ、「本当に同棲してるんだな」と呟いた。  裕斗はうん、としか言えなかった。 「拓也の本、持ってきたんだ。研究室に忘れていったから」 「そうなんだ。ありがとう、預かるよ。拓也は風邪で寝込んでるんだ」 「――中に入れてくれない? ちょっと話したいし」  言いながら、友斗が三和土に入ってくる。 「ちょっとこれから、買い物に行きたいんだ」 「じゃあ待ってる、ここで」  裕斗の承諾を得ずに、友斗は靴を脱ぎ、上がり框を踏んで廊下を歩いて行く。  引き留めようとして、やめる。かつては弟も、ここに来て拓也と過ごしていたのだと思うと、彼を追い出す気になれない。 「行ってくるよ。すぐ戻るから」  友斗の背中に声をかけ、裕斗は外に出た。  早く済ませなきゃ、と気が急いた。近くのコンビニに入り、先に栄養ドリンクを探した。レジ前の棚に数種類並べてあったが、どれもカフェインの成分表示があった。  裕斗は何も買わずに店を出て、そこから徒歩十分のドラッグストアに向かった。コンビニよりも栄養ドリンクは豊富な品揃えで、カフェインレスが一種類だけあった。迷わず三本セットを手に取り、冷蔵棚のコーナーでゼリーとポカリをカゴに収めた。  思っていたより時間がかかった。部屋に帰り着くまでに三十分以上を要した。  息せき切って玄関の鍵を解錠し、ドアを開けた。友斗の靴はそのままある。  裕斗は急いでリビングに向かった。が、弟の姿がない。  ――まさか。  荷物をリビングの床に置き、無意識に忍び足になりながら寝室まで歩いた。  ドアが僅かに開いている。そっとドアノブを掴んで前に押す。 まだ室内は明るい。夏を引きずった日差しがレースカーテン越しに、窓辺を、拓也に掛かっているタオルケットを、傍らにいる友斗の髪を照らしている。 「どう? 少しは良くなった?」  穏やかな声で友斗が声をかけた。拓也は薄く目を開けて、軽く頷いている。  裕斗はドアの前に立ったまま動けなかった。 「それなら良かった」  安心したように笑う顔を、固唾をのんで見ている。ずかずか部屋に入って止めるべきなのに。それができない。あまりにも、彼らが醸しだす雰囲気が落ち着いていて、自然だったから。  裕斗と同じ声。同じ横顔。同じシルエットの友斗が、少し体を起こした拓也に身を寄せた。あと五センチで顔がくっつく距離になる。 「ひろと」  拓也の甘い声に、耳を塞ぎたくなった。  裕斗は彼らから目を逸らし、ドアの前から退いた。リビングに戻る。  ――俺が特別じゃなかったのかよ?  心の中は荒れ狂っていた。同棲するほどの仲なのに、それでも友斗と自分を見分けられないなんて。拓也は愛おしそうに友斗を呼んでいた。ひろと、と。  ――ダメだ、冷静にならないと。拓也は熱があって、正常な判断が出来なかったのかもしれない。  裕斗はキッチンのシンクで、コップに水を汲んだ。喉が渇いていたらしい。一気に飲み干してしまった。  背後で人の気配がした。振り返った先には、弟が立っていて、悪びれもせずに、笑みを浮かべて話しかけてくる。 「そろそろ帰るね。拓也、けっこう辛そうだね。明日も休んだ方が良さそうだね」 「――話があったんじゃないの」  声は辛うじて震えなかった。 「あったけどもういいや。忘れちゃった」  いたずらっぽく笑って、彼はさっさと玄関に向かって歩いて行く。後を追おうとしたとき、裕斗、と名を呼ばれた。寝室から拓也が出てきた所だった。 「友斗は」  こめかみを押さえながら、拓也が呟いた。 「もう帰ったよ」  裕斗は端的に答えた。激情が込み上げないように。 「なんで部屋に入れたんだ」  責める口調で問われ、裕斗はムッとした。 「拓也の本を持って来てくれたんだ。話もあるって言われて」 「玄関で受け取って、話は違う日でも良かっただろ」  溜め息混じりに拓也がいう。機嫌が悪そうだ。頭が痛いのだろう。 「友斗とキスしたの」  舌が勝手に動いていた。こちらも責め立てる口調になる。 「俺のこと、特別でもなんでもないじゃん。友斗と見分けがつかないなんて」  ギリッと拓也を睨みつけた。見分けて欲しかったのだ。本当に自分が特別ならば。熱で朦朧としていたとしても。 「キスなんかしてない。顔が近づいてきたけど、避けたよ」  拓也の方に冷静さが戻ったようだ。声に抑揚がない。 「『ひろと』って呼んでただろ」  やけに自分の声が響いた。この部屋で、ここまで感情的になったことが今までなかったのだと思い至る。 「起きたばっかりで寝ぼけてたんだ。すぐに裕斗じゃないって分かった。だから怒るなよ」  途中から、声が優しくなる。裕斗の機嫌を取ろうとしているのが分かる。 「ああ――顔が近かったら分かるよな。ピアスがついてるかどうか」  友斗と自分の違いはそれしかない。親だって裕斗たちをちゃんと見分けていなかった。それぐらい瓜二つなのだ。  はあ、とあからさまな溜息を吐いて、拓也が近づいてくる。 「そもそも、友斗を部屋に入れなければこんなことにはならなかっただろ」 「勝手に部屋に入って来たんだ。本当は追い出したかったけど、本を持って来てくれたし――俺は俺で買い物がしたかったから、部屋で待たせたんだ」  まさか友斗が、勝手に寝室に入るとは思わなかった。そこまで図々しいことはしないと過信していたのだ。 「それなら買い物を後回しにすればよかっただろ。帰ってくるのも遅いし――」  最後の言葉にカチンとくる。彼に頼まれた栄養ドリンクを買い求めていたから遅くなったのに。  言い返したいが、やめておく。喧嘩したくない。拓也は病人だ。 「ちょっと頭冷やしてくる」  裕斗は拓也から後ずさり、彼から目を逸らした。 「裕斗、ごめん。すぐに見分けられなかったのは本当だから――ごめん」  行くなよ、としおらしい声で更に言い、手を伸ばしてくる。裕斗はその手から逃れ、玄関目指して走り出した。  背後から名前を呼ばれるが、一度も振り返らなかった。  拓也はやっぱり追いかけてこなかった。
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