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第1章 それは終わりから始まった
1.パウラ、遡る
「わたし、もうセスラン様のものなんです。だから黄金竜の聖女にはなれません」
おどおどとしながらも決定的なことを、エリーヌ・ペローは口にした。
俯きながら恥ずかし気に。
ふんわり綿毛のような髪をした愛らしい彼女は、燃えるような赤い髪の青年にぴたりと胸を寄せている。
そしてパウラを見て、にやりと笑った。
確かに、にやりと。
「聖使セスラン、それは本当か」
当代の聖女オーディアナが厳しい声で問い糺すと、苦し気な表情をして赤い髪の青年が頷いた。
「はい。申し訳ございません」
そのテノールのよく響く声。
パウラは後頭部を殴られたような衝撃を受ける。
嘘。
昨日セスランと話した時、そんなことを彼は何も言っていなかった。
たった一晩でそういうことになるもの?
セスランは、どちらかといえばエリーヌを苦手にしているように見えた。
それが急に?
「黄金竜の聖女なんて、わたしには務まりません。パウラの方がよっぽど向いてます!」
エリーヌがセスランの腕にさらに縋って、舌足らずな甘い口調で追い打ちをかける。
嘲るような表情、その声は相変わらず苦手だけど、何より衝撃的だったのはセスランがあれを選んだことだ。
信じられないけど、事実だ。
今パウラの目の前で、セスランはエリーヌとの仲を肯定したんだから。
なぜだか胸の奥がもやもやとする。
ずきんと痛いような気も。
「だそうだ。パウラ、良いな?」
銀の髪をした当代の聖女オーディアナが、ため息まじりにパウラに問いかける。
セスラン以外の3人の聖使の視線もパウラに集まって、パウラは目を閉じて息を整えた。
「承知いたしました。聖女オーディアナ、喜んで承ります。非才の身ではございますが」
頭を上げてまっすぐに当代聖女オーディアナを見る。
パウラには当然の返事だ。
生家ヘルムダール大公家でも、生まれた時からそう教育されてきた。
歴代の聖女オーディアナに劣らぬ、完璧な聖女になれと。
そのパウラを見て、エリーヌがくすりと笑った。
「ごめんね、パウラ。わたしがセスラン様をとっちゃったから。押しつけたみたいになって、ほんとにごめん」
エリーヌの言葉にはあからさまな毒がある。
今日に限ったことではなく、聖女オーディアナ候補として召喚されてからずっとだったが。
その理由が、パウラにはわからない。まったく心当たりがない。
なぜこんな敵意を向けられるのか。
セスランは一度もこちらを見ない。
視線を落として俯いている。
なんだ、このヘタレ。
気にする自分が、情けなくて腹が立った。
この世界を支配しているのは、竜族だ。
他にも狼とか白虎とか違う種族もいるにはいるけど、数の多さ力の強さで言えばほぼ竜族の世と言って良い。
その頂点に立つのが、竜族の長である黄金竜オーディ。
パウラがいやいやながら受け入れた聖女オーディアナとは、要するにその黄金竜の側室だ。しかも名ばかり、お飾りの。
竜族は情の深い生き物で、生涯にたった一人の伴侶しか持たない。そうじゃない人もいるらしいけど、それは竜に非ざるものとしてバカにされることで、ほとんどの竜族の男は伴侶ひとりだけを大切にする。
その竜族の長がどうして側室なんて持つかといえば、伴侶たる妻の仕事を丸投げするためだ。
現竜后オーディアナという人は、仕事が嫌いらしい。竜族の長の妻ともなれば、まあそれなりにしなくてはならないこともある。
けれど現竜后は、まるでやらない。手も付けない。そうなるとさばかなければならない仕事は山積みになるばかりで、いつのころからか仕事をさばくためだけに、側室を迎えだしたのだとか。
それならただの聖女でいいだろうと思うのだけど、本来妻の仕事をしてもらうのだからと、黄金竜は下手な同情をしたらしい。
名ばかりでも妻である側室にしておいた方が、良心の咎めがないんだろう。
まったく良い迷惑だ。
下手に妻なんかにされると、一応名のみとはいえ夫ができるわけで、そうしたら誰かを好きになることもできない。
処女のまま仕事だけして生涯を終えるのだ。
わかっていても生真面目なパウラには、手を抜くことなどできるはずもなく。
結局期待された以上の仕事をして、長い長い生涯を終えた。
「あーばかばかしい。次は絶対こんな飼殺し人生、まっぴらごめんだわ」
最後にそうつぶやいて、終えた。終えた……はずだった。
「姫様、お目覚めですか」
控えめなノックと共にかけられた声で、目を覚ました。
がばりと身を起こして急いで辺りを見回すと、クルミ材の調度に柔らかなクリーム色のカーテンやソファが目に入る。
ふかふかと毛足の長い絨毯も、見覚えのあるもので。
(これってヘルムダールの、わたくしの部屋よね)
ついさっき、パウラの命はつきたはず。
なのにどうして生きている。それもどうやら実家の、自分の部屋にいるのか。
「姫様?」
重ねて問いかけられた声に、咄嗟に返事をした。
「起きてるわ」
声が幼げに高い。これってパウラの声?
すぐには信じられない。
見た目も確認しなくては。
確かこの部屋には、父から贈られた大きな姿見があったはず。
寝台の端から足を下したところ、つま先から床までの距離は思ったより長くて、飛び降りるにも少しばかり勇気が必要だった。
けれどためらう時間も惜しかった。
えい!
目を瞑って思い切り飛び下りると、小さな身体は床にころりんと、子猫のように転がった。
「まあ、姫様。何をしておいでですか」
朝の身支度を手伝いに来たらしいメイドは、メイジーだった。
おさまりの悪い栗色のくせ毛を白い制帽に押し込んだ彼女は、たしかパウラ5歳の時に専属の側仕えになったはず。
彼女がいるということは、5歳以上であるのは間違いない。
「メイジー、わたくしは今いくつ?」
調べるより、聞いた方が速い。
おかしな質問であることはわかってはいたけど、知りたい気持ちの方がより強い。
メイジーはほんの少しだけ目を見開いた後、答えてくれた。
「今日、6歳におなりです」
つまり時間を逆行したということらしい。
6歳。
ということは、聖紋が現れて1年か。
黄金竜の花嫁候補に刻まれる聖紋とは、ヘルムダール大公家の直系女子にのみ現れる赤いあざ。
パウラにとって呪いの紋章でしかないこのあざは、おおむね5歳になると身体のどこかに浮かび上がるのだそうだ。
パウラの場合は、右肩だった。
白いリネンの寝巻の肩を引っ張り確認すると、確かにあった。
5枚の花弁のように見える、くっきりと浮かび上がる赤い紋章が。
忌々しい思いを噛み殺して、思う。
黄金竜の泉地に召されるのは、たしか17歳だ。
今が6歳なら、準備期間は11年。
それだけあれば、対策は打てる。
二度と、あの飼い殺し人生を送らないように。
そのために、やるべきことは山積みだ。
「着替えるわ」
手始めに、自分の姿を確認したかった。
6歳のパウラはどのようであったのか、あまりに遠い昔過ぎて自分でも思い出せない。
心得たように、メイジーが姿見を引き出した。
成人男性1人を余裕で映せる姿見は、父の婿入り道具として持ち込まれたものだ。
パウラを愛してやまない父が、昨年の誕生祝に贈ってくれたはず。
曇り1つなく磨き上げられた鏡面に映るのは、流れるようなプラチナの髪に輝くエメラルドの瞳の少女。
まさしく6歳の、パウラの姿だった。
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