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____「眠い」
夕べもよく眠れなかった。
早朝、寝不足の身体を引きずりながらキッチンへ向かい冷蔵庫を開いた。
一人暮らしにしては結構大きめ。
納豆としらすと卵、それに昨日の夜に冷凍庫から少量を取り出して解凍しておいた刻みオクラを取り出して、熱々のご飯をどんぶりによそい、それらを一応彩りよく盛り付ける。
最後にだし醤油と刻みのり、青ネギをかければ完成。
「いただきます」
手を合わせて豪快にかき込む。
どんなに寝不足の日も、朝ご飯をしっかり食べられるのが不思議だ。
そして、何故寝不足かと言えば、もちろん有村副社長のせい。
あれから毎日のように電話がかかってきては、咀嚼音を聞かせてとせがまれる。
断りきれずに惜しげもなく披露して、そうするとその後すぐには寝つけず、変な夢ばかり見るようになってしまった。
それはもちろん、有村さんの夢だ。
「このネバネバ丼は流石に聞かせられない。もっとサクサクパリパリしてないと」
そんな独り言をしてから我に返る。
何咀嚼音意識しながら食べているんだろう。
頭の中は常に咀嚼音と有村さんのことでいっぱいで、そんな自分が不思議で仕方なかった。
「ごちそうさまでした」
今日は会社で会えるかな、なんて。
無意識に期待している自分はどうかしている。
彼は私のことを一人の女性としてではなく、咀嚼音の主としか見ていないのに。
突如として沸き起こった胸の痛みに困惑しながら、紛らわすように身支度をして家を出た。
会社は都内、自宅アパートの最寄り駅から電車で30分。
地元の横浜からも通える範囲内だけど、一人が気ままなので就職と同時に実家を出た。
自分の好きなものを好きなように食べられるから一人暮らしは楽しいけれど、やっぱり一人での食事は寂しいと感じる時もある。
そして最近の一番の心配は、築30年のアパートが、老朽化していつ破損してもおかしくないということ。
____「副社長、おはようございます」
会社のエントランスに足を踏み入れた途端耳に入った副社長というフレーズに、心臓が一気に高鳴った。
昨日もラスクの咀嚼音を聞かせたばかりだし、どんな顔で会えばいいかわからない。
咄嗟に大きな観葉植物の後ろに隠れる。
有村さんは、秘書らしき女性と朗らかに会話していた。
パッと見ただけで息を呑むくらい美しい、自分と同い年くらいの彼女。
長い髪を耳にかける仕草は妖艶で、ごくりと固唾を呑み込んでしまう。
「副社長、肩に綿ぼこりが」
「ああ、ありがとう」
彼女がそっと有村さんの肩に触れた瞬間、あり得ないほど胸がぎゅっと締めつけられたのがわかった。
そんな自分に困惑して、うっすら気づき始めている感情に、途方に暮れる。
嫉妬なんて、馬鹿みたい。
私は音としてしか相手にされてないのに。
「社長、おはようございます」
隠れてじっと二人を見つめているうちに、今度は我が社のトップ、有村義明社長が威風堂々現れた。
そう、有村さんのお父さんだ。
何故かまだ隠れたまま様子を伺ってしまう。
「おはようございます」
有村さんは深々と社長にお辞儀をする。
だけど社長は……
「ああ」
そう一言呟いただけで、有村さんの方を一度も見ることなく去って行ってしまった。
親子で、それに二人で会社を切り盛りしているはずなのに、遠くからでもわかる冷ややかな雰囲気は一体なんなんだろう。
「………………」
どこか寂しそうな表情で、社長の後ろ姿を見つめる有村さん。
その顔を見たら、また別の胸の痛みに襲われるのだった。
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