第三部 了に寄せて(9)

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第三部 了に寄せて(9)

 ……山口小弁⑥  1)明智軍が攻め込む中、 信忠の馬廻り、佐々清蔵が、 鎧も着けぬ身では亡骸を見られた時に恥ずかしかろうと言い、 敵中に討って入って相手から甲冑を奪い、 小弁に着けさせたというもの。  2)二条新御所を落とした明智軍が入った際、 頬を血に染めたたいそう美しい少年の死体があり、 兵達が哀れんだ。  信忠の小姓で京都伏見の役者の出という山口小弁だった。  享年16。  小唄が上手かったという。  3)奇襲の明智軍は信忠を軍勢、装備で圧倒した。  佐々清蔵と山口小弁は、 信忠を総大将とする甲州征伐での武功により、 信長から感状と褒美の刀を賜っていた。  二人はこの最後の日にも敵に討ち入り、 鎧甲冑、武器を奪い、勇敢に戦った。  以上、共通するのは、 小弁が佐々清蔵とコンビのように語られていることです。  武田家を滅亡させた信忠の甲州征伐で、 清蔵と小弁は信長から称賛を受けていて、 それがこうした逸話に繋がって、 今に伝えられているのだと想像します。  前にも書きましたが小弁と同名の家来が、 信忠の弟、信雄(のぶかつ)の分限帳に、 信忠の死後、載っています。  果たして同一人物なのか。  いや、違うのか。  小弁の出自も相まって様々な想いが膨らみます。  小弁の生死の謎を紡ぐような物語、 いつか書けたらと夢想もしてしまいます。  そして明確な史実も一つ。  佐々清蔵は信長の馬廻り(親衛隊)を率いた佐々成政の甥で、 妻の輝子は従兄妹(いとこ)でした。  輝子は成政を父に、 京都所司代にして信忠の庶兄の養父である村井貞勝 (信忠と共に二条新御所にて討死)の娘を母にという出自。  清蔵、輝子、共に信長と深く結び付く家柄で、 未来は希望に満ちていたことでしょう。    しかし清蔵は信忠に殉じ、討死。  夫を喪った輝子は五摂家の名家にして、 関白の家柄である公卿の鷹司信房の後妻として、 再嫁しました。  長男の信尚は関白・左大臣となり、 長女は徳川家光の正室として輿入れ、 病がちであった為、 家光の子を産むことはありませんでしたが、 家光からも家光の子である家綱からも生活を厚く保証され、 また輝子の二女は浄土真宗本願寺の法主へ嫁ぎ、 輝子は関白夫人として一生を送りました。  きっとあの世から清蔵も見守り、 現世に残した妻の幸福を喜んでいたことでしょう。  尚、昭和時代、 論客として名を馳せた故・佐々淳行(あつゆき)氏 (東大法学部を経て初代内閣安全保障室長、 第15代防衛施設庁長官)は、 水戸黄門の助さんのモデルとなった佐々介三郎の 兄の子の子孫だそうで、 このように成政、清蔵の熱い血が現代にも継がれていると思うと、 深い感慨を覚えます。  秀吉により、さぞ悔しかろう死を迎えた成政。  秀吉の子孫は秀頼で絶えています。  しかし成政の血は、 娘の輝子によって今上天皇の直系祖先となって、 今の御世に受け継がれています。                  
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