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死ぬつもりで海に来た。
空は透明に青く、海は穏やかに波をたゆたせ、空の青さと海の碧さが水平線でくっきりと分かれている。
清々しい秋晴れの日に死ぬなど、なんと不毛なことだろう。
高校の制服が汚れるのも気にせず、テトラポットに座る。
祝日でも何でもない水曜日に海岸に来ているのは、釣りをしているおっさんだけ。おっさんたちを遠巻きに眺めながら、俺は学校の鞄を海に落とした。
集団生活の苦しさと、周囲と同じようにできない悩みと、生きていることへの絶望が、鞄と共に沈んでいく。
鞄は呆気なく沈んだが、自己嫌悪と自殺への葛藤は消えることなく、胸の中心に居座ったまま。
「こっちだよぉー!」
あどけない子供の声に、自己の内面世界から、人々と生きる現実世界へと意識を連れ戻される。
声がするほうを見ると、二、三歳ぐらいの男児が海岸沿いをとてとてと走っていく。若い母親が追いかけていき、子供の手を取った。
子供は無邪気な笑い声をあげ、母親は子供の手をしっかりと握った。
まるで世界中の幸福を集めて煮詰めたような明るさがそこにはあった。
(こっちだよ!)
昔そう言って、兄より早く走った。早く釣りをしたくて、自転車を放り出すと無我夢中で釣り場に向かった。
五つ上の兄は倒れている俺の自転車を直し、後を追ってきてくれた。周囲の釣り人から「元気だな」「仲が良い兄弟だ」と声をかけられた。
確かに俺と兄は喧嘩しながらも、仲が良かった。
なのに俺が、兄弟仲も、幸福も、兄の命も奪った――。
日がゆっくりと西に傾き、透明で明るい空気にオレンジ色を混ぜていく。
それでも自殺する決心がつかずに、テトラポットに張りついたまま。
「今日は兄の命日。死ぬのは今日なんだ」
七年前の今日。釣りが終わって帰ろうとしたとき、自転車の鍵がないことに気づいた。徒歩で帰ってきたものの、不安が込み上げてきて、探しに行くことにした。
(お前は家で待ってろ。ボクが探してくるから!)
兄が探しに行ってくれた。兄が家を出てすぐに雨が降り出し、あっという間に激しい雷雨になった。
兄は遺体となって家に帰ってきた。足を滑らせて海に落ちた可能性が高いと、警察は判断した。
「俺のせいだ……。鍵を落としたから……探しに行くなんて言ったから……」
兄ではなく、自分が探しに行けば良かったのだ。
どうしようもない後悔に苛まれ、それでも臆病風に吹かれて海に入水できないでいると、父に肩を叩かれた。
「ここにいると思ったよ。綺麗だなぁ」
父の声はのんびりしていて、学校を無断で休んで海に来ていることを咎める様子がない。
秋の日差しが海を照らし、海の碧さにオレンジ色の光を加えている。
「自分が死ねばよかったのだと、そう思っているんだろう?」
反応できない。
父は「よっこらしょ」と言って、隣に座った。
「兄さんではなくお前が死んだとしたら、やっぱりあの子も自分が死んだらよかったのにと後悔しただろう。二人とも生きていてくれたらいいのにと、何度思ったか……。だが神様は、一人しか残すことをしなかった。あの子は、お前が生きていることを喜んでいる。これで良かったと安堵している気がするんだ」
「そんなわけ、ない……」
俺は秀でた人間じゃない。生きていたからといって、何もない。
父の言葉は思いやりにすぎない。兄が俺の生きることを喜んでいるのかなんて、誰にも知る由はない。
テトラポットに波が当たる。
チャプン、チャプン……。
なにかがテトラポットの間に挟まっているのに気づき、心臓が鷲掴みにされる。血の気が引き、ふらりと目眩がする。
恐る恐る挟まっているものを手に取る。それはたいぶ汚れているが――パンダのキーホルダーがついた自転車の鍵だった。
――七年前に俺が落とした自転車の鍵がここにある……。
俺は声をあげて泣いた。息をするのが苦しいほどに嗚咽を吐き出し、体を折り曲げて泣いた。
この奇跡についての解釈は死者ではなく、生きている人間がするもの。だがたった一つだけ、はっきりしている真実がある。
俺が死んでも、兄は生き返らない……。
夕暮れに染まる中を、俺は父とともに家に帰った。
泣きすぎて腫れた瞼と、ぐうぐう鳴るお腹の音が、生きていることを実感させてくれた。
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