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母からはうんざりするほど何度も電話がかかってきた。もし家に来たら必ず引き留めて置くように、連絡があったらすぐに知らせるようにと言い含められた。
義理の兄からも直接連絡が入った。番号を教えた記憶はない。母から聞いたのだろうか。疲れ切った声で、サトの行方に心当たりはないかと尋ねられた。
「結婚式のとき以来、一度も会っていませんから」
「そうなんだ」
意外そうな声だった。
「仲がいいって聞いていたから」
「……普通、じゃないでしょうか」
「はは、そっか、普通か。サトのことでもし何か分かったら、僕の方にも知らせてほしい」
「分かりました」
電話が切れるのと同時に、ふう、と溜息が漏れた。
姉は、何でもそつなくこなすタイプの人だった。勉強もスポーツも、特に頑張らなくてもそこそこできてしまう人だった。絵が上手で、小学生のころはよく賞を取っていた。両親と姉、そしてわたしで市内にある文化ホールへ絵を見に行ったこともある。中学に上がってからは描かなくなったけれど、芸術の成績は常にトップだった。
「どうして美術部に入らないの」
姉は帰宅部だった。
制服のまま、わたしの部屋で胡坐をかいて漫画を読み耽っている姉に問いかける。ちょっと待っててと一度部屋を出てから、姉はスケッチブックと鉛筆を持って戻ってきた。
「何描いてほしい?」
「そういうことじゃないんだけど」
「じゃあ、イズミ描いてあげる」
さらさらと右手を動かしてものの数分で絵は完成した。
「どう?」
そこにはひどく不満げな顔をした自分のモノクロがあった。
「そんな顔描かないでよ」
はは、と笑って、姉はスケッチブックを閉じた。
高校に上がっても姉は帰宅部のままだった。中学の頃のまま、帰宅後はわたしの部屋に入り浸る生活を続けていた。けれど、二年生に進級したタイミングで、おせっかいな母に塾に入れられてしまった。おそらく姉は、塾に通わずとも同じくらいの成績はとれただろう。結果として、姉は優秀な成績を収め大学に進学した。
姉が大学に入った翌年、県外の大学進学を免罪符に家を出たわたしは、バイトだ勉強だ研究室だとすべてを言い訳に使って実家に寄り付かなかった。
毎年、夏に一日だけ、姉が泊まりに来た。
「どっち食べたい?」
「ソーダ味」
「そっちかあ」
「だめなの?」
「イズミ毎年変わるよね、今年はバニラだと思ってたのにさ」
ビニール袋からソーダ味のアイスを取り出して、わたしの頬に押し付ける。
姉はいつも、近所のコンビニで二種類のアイスを買ってきた。
「そうだっけ」
「そうだよ、去年はバニラだったよ」
「覚えてない」
薄情だなあと姉は笑った。
「お、今年も咲いてるね」
窓越しにベランダのプランターを眺める姉の後ろ姿を、じっと見つめる。
長かった髪は首元が覗くほどばっさりと短くなっていた。
「なんか、恒例になっちゃったから」
「ないと落ち着かない?」
「うん」
ベランダには、このアパートに住んでから毎年育てているアサガオが花を咲かせている。入学祝いだと言って姉に渡された種を蒔いたら、案外うまく育ってしまった。花が終わった後もなんとなく種を収穫して、時期が来ると思い出したようにその種を蒔いている。
「いいじゃん。夏の風物詩だし、これ見るだけでちょっと涼しい感じするよ」
「そうかな」
絶対そうだよ、とベランダを向いたまま姉は頷いた。その後、少し間を置いて、実はね、と改まって姉が口を開いた。
「今度、結婚することになって」
わたしは一瞬固まった後、そうなの、と呟いた。
「うん。同じ職場の人でね、でも出会ったのは大学のころで、偶然だねって盛り上がってね」
「そう」
わたしはアイスに目を移す。
頬張り過ぎたのか、頭がキーンとした。
「おめでとう」
「うん。ありがと」
やっと振り返った姉は、頭を押さえてしかめっ面になっているわたし見て「大丈夫?」と言って笑った。
「アサガオ、まだやってたんだね」
「うん」
あの夏と同じように、ベランダを向いている姉の後ろ姿を見つめる。
姉の髪は、背中まで伸びていた。
「お母さん、何て?」
「ずっと同じ。居場所が分かったら教えろって」
「そっか」
「さっきの電話、お義兄さんからだったよ」
「うん」
「内容は一緒だけど」
「うん……イズミはさ」
「何?」
「研究って楽しい?」
「楽しいよ」
「そっか。そうだよね」
「ねえ」
「なに?」
「アイス買ってきてよ」
振り返った姉は、ぽかんとした顔でわたしを見つめた。
姉のめずらしく幼い表情に、ふっと息が漏れる。
「ここは一泊に付き、アイス一個って決まってるんだよ」
「……あー、忘れてた。何が、えーと、……ソーダアイス?」
「チョコミント」
「イズミ、それ食べてるの見たことないんだけど」
あのときのように、姉が笑った。
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