Bパート「椎名」

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Bパート「椎名」

Side‐椎名 ―――――― 夜に差し掛かる夕方の空は、うっすらと藍に、黒が滲んでいる。 今日は一日中、強い風が吹き荒れている。冬には珍しいほどに。 まるで世界がまるごと、悲しんでいるみたいだ。お前の喪失を。 「なあ、」 呼びかけに答える声は無い。ごおっ、と風が鳴いた。 立ち入り禁止のロープをくぐる。沈みかけの太陽の光で、浜は淡く輝く。 「さっみぃ」 潮風に乗って海水が飛び散り、俺のジャンパーを濡らす。 ポッケに手を突っ込み、フィルムケースに触れる。 半年前の夏。智広と一緒に拾った貝殻がこの中には入っていた。 小さな二枚貝を拾い上げた、細い指を思い出す。白く骨ばった彼の指。 病気になって智広はどんどん痩せていった。以前の姿が嘘みたいに。 「もう、上手に思い出せねぇの、怒る?」 病室なんて似合わないな、って指差して笑ったことは覚えてるのに。 『うるっせぇ』と笑った顔は、もう病気が進行したあとの姿で。 脳の再生機能が上手くいかねぇんだ。これって元に戻せるんだろうか。 不可逆性だと嫌だな。お前の病気みたいに、進行してくとしたら。 ――どうして、治らない病気なんてあるんだろう。 あいつ、あんなに頑張って、頑張って頑張って、治そうとしたのに。 それなのに、智広はもういない。やりきれない、どころの話じゃねぇって。 「った…痛いな……」 噛み締めすぎた奥歯。舌で咥内を舐めると、血の味がした。 ごくん、と飲み込む。ついた溜息が、白いのに気づく。 フィルムケースをポッケから取り出すと、コロコロ、と中で貝殻が転がった。 これは俺に残された、唯一の遺物だ。他は何ももらってない。 何度も病院を脱走するのを手伝った、俺が他に何を望んでいいというのか。 それでも智広の母さんは、葬式に参列するのを許してくれた。 震える声で、あの子に優しくしてくれてありがとうと、そう言ってくれた。 友達と言うには近すぎる俺たちの距離に、きっと勘づいていただろう。 涙に暮れるその人の感情を、推し量ることは不可能だけれど。 本心ではきっと、許せなかったんじゃないか。息子の時間を奪った俺を。 『これ、あなたにって。開けないで渡してって』 遺書に書いてあったの……。消え入りそうに言って。 渡されたフィルムケースには、手紙も何もついていなかった。 葬儀場の照明に透かしてみても、貝殻以外に入ってるものはなかった。 「俺、そんなに勘、よくないんだぞ」 だからお前がこれで何を伝えたかったのか、わかんねぇよ。 わかんねぇから、したいようにするしかなくて、智広と歩いた海にきた。 思い出を反復するように砂のうえを歩く。前にも後ろにも、誰もいない。 波がかかるギリギリの場所に立つ。遠くを、遠くをじっと見つめる。 光が飲み込まれていく。夕方が、終わろうとしている。 指に力を込める。軽い蓋を開けるのが、こんなに大変なことあるか。 「う、うう、うぁ、あ」 うめき声が勝手に漏れる。 口のなかはまだ痛くて、涎と血が唇の端から垂れた。 「ひら、け、ひらけよ、くそったれ……」 フィルムケースがベコッと音を立てた。 中の貝殻が擦れて、コロッ、コロコロッ、と内側から指を叩く。 どうしてだ。本当は開けたくないからなのか。俺の意志なのに。 相反してるのか。俺は、本当のところは開きたくないのか。 後生大事にこいつを持っていたいのか。病める時も健やかなる時も。 「そうだよ!」 海に向かって怒鳴る。そうだよ、持っていたいさ。 離れたくない。ずっとずっと傍にいたい、死ぬまで、一生。 息が切れる。フィルムケースに込めていた力が抜けていく。 決意したと思ったんだけれど、まだ早かったのかもしれない。 まだ俺には残された時があるのだから、もっと整理してから……。 「っは、は……」 笑ってしまう。何が残された時間だっていうんだ。 そんなのがあるんだったら、あいつに半分、いや全部だって。 あげてしまいたかった。そんなことができるなら、喜んで差し出した。 どちゃりと、無意識に、砂の上に膝をついていた。波が迫る。 冷たい。冬の海なのだから当然だけれど、あいつの指のほうが冷たかった。 夏に握った、あいつの指のほうが、きっと冷たかった。 手が震える。カタッ、カツンッ、貝殻が鳴る。ここから出せとでも言うように。 「うあっ」 風が吹きすさぶ。ひときわ大きな波が、俺のほうへとやってくる。 こちらに来いと言ってるような気がするのは、ただの願望思い込み。 だから――これも、幻覚。 俺の愚かな脳が見せている、影の人。 「智広……」 海の向こうにぼんやりと浮かび上がる。 パジャマの上に、カーディガンを羽織った、見慣れた姿。 若草色がマントのように、風で激しく舞い上がっている。 「智広っ…智広、智広……!」 わかっているのに、俺は立ち上がる。 ジャバジャバと足元で波が跳ねる。走り出す、海の向こうへ。 服にどんどん海水が沁みていく。感覚はとうに変になっていて。 嘘みたいに体が動く。震えも止まって、水の重さも感じなくなっていた。 「智広、智広ーー!!」 影は振り返らない。空をまっすぐに見上げている。 俺の声が聞こえないのか。ならば何度でも叫んでやる。 「智広ーー!! お前、この、くそったれーー!!」 水しぶきなんだか、鼻水なんだか、それとも涙なのか。 俺の顔は酷いもんになってるだろう。笑ってくれよ、智広。 「なぁっ、この、嘘つき!ガラス作る生き物なんていないじゃねぇか!」 人に話して、すげえ馬鹿にされたんだぞ。 平然とした顔でホラ吹きやがって。お前の嘘はわかりにくいんだ。 「これだって、スライム入れじゃねえじゃんか!!」 いや、これは嘘かどうか微妙だけれども。 でも本来の使い方じゃないし、オモチャでもなかった。 フィルムケースを振る。ガランゴロン、大げさに貝殻が鳴る。 「智広っ…ごふっ、ゲホッ、うぇ、しょっぺ……」 いつの間にか口元まで俺は海に浸かっていた。 幻影は消えない。俺が一番大事なことを言ってないからかもしれない。 だけど、勝手に脳が作り出したモンになんて、言う価値があるだろうか。 生きてるうちに、もっと言っておきゃよかったんだ、そんなの。 「連れてって……くれよっ……」 なっさけねぇ声が出る。影にだってすがりたいんだ、俺は弱いから。 でも同時に、どこまでも本気にはなれないのだってわかっている。 俺はどうしようもなく冷静で、いっそ冷酷で、だから後追いなんてできない。 そんなことしたら、あの世にいる智広に、死ぬほどぶん殴られるだろうし。 「はぁ……は、ゲホッ、あ……ああ……」 影はだんだんと薄くなっていく。俺の理性が切れないあまりに。 それを幻覚だと決めつけているばかりに。幽霊なんて信じないあまりに。 だけど影は、消える寸前になって、とうとう俺のほうを見た。 『椎名、それ』 彼が指差したものは、フィルムケース。 波に押されて、思わず踏ん張った。その時、それは舞い上がった。 俺の手から離れて、後ろへ転ぶ俺の頭上へ、白い小さな筒が跳ぶ。 蓋が外れて、貝殻が空中へ。智広の影を背景に、散らばった。 小さな二枚貝、棘だらけの貝、ぐるぐるの巻き貝。 もう生きていない。死んだ生き物が残した欠片が、海へ還ってゆく。 手を伸ばしたって、もう手遅れだった。すべての貝殻が落ちてしまって。 同時に、影も消えた。夕日の沈んだ水平線に、若草色が滲んだ気がした。 「う、わ、ああっ」 海の中へ落ちる。寸でのところでフィルムケースをつかんだ。 波に押し流される。沖のほうへは行けないんだろうと不思議に思う。 まだ来ないでいいよと、連れてってなんてやらないと。 智広ならそう言うだろう。意地でも俺を陸へ戻してしまうだろう。 「ばっかやろう」 本当は寂しがりのくせに、かっこつけやがって。 勝手に寝るし、勝手に死ぬし。勝手に貝殻なんて押し付けてくるし。 でもそんなお前だから、愛しいと思ったんだ。 最期まで一緒にいたいって、これから先、忘れられなくなりたいって。 思ったんだ。智広のこと、永遠の心の傷にしてしまいたいって。 「ぶ、ごほっ……」 空気の塊が塩水の中で揺らめく。吐き出す息は丸い形をしている。 力が抜ける。されるがままになっていると、すぐにからだは浮いた。 背中に擦れる砂と石の感触。浜辺はすぐそこ。ほら、やっぱり。 海の底を蹴る。お前、すっかり非力になってたもんな、手伝ってやる。 大丈夫だ。心配しなくたって、生きてってやるよ。 やがて砂浜へとたどり着く。智広のいない、海のベッドに横たわる。 「は、はあ……凍えるっつーの……」 感覚がようやく戻ってくる。不思議なもんだ、真冬の海に入っておいて。 握りしめたままの、フィルムケースを眺める。 蓋はどこかにいってしまった。貝殻はひとつも残っていない。 俺は思い出す。最期の息を、椎名にあげたい。そんなたわごとを。 「俺のこと、そんなに好きか」 フィルムケースを口元に寄せる。どこか薬くさい病室の匂いを感じた。 底に少しだけ、水が入り込んでいて、俺はそっとそれに口づける。 飲み込んだのは、ロマンチックな俺の妄想で言えば、智広の涙だった。 ―――――― Bパート‐END
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