Aパート「智広」

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Aパート「智広」

Side‐智広 ―――――― 早朝の空は、うっすらと橙に、白が重ねて塗られている。 潮風は思いのほか強く、べたべたと体に纏わりついてくるようで。 だけれど不快ではない。少なくとも、滅菌された薬くさい病室よりは。 「おい、智広。……もう少し、ゆっくり歩けよ」 お前、そそっかしいとこあるじゃん。だから、サァ…。 注意の言葉は濁る。そうだよな、俺、前なら歩くの、当たり前だった。 意識なんてしなくても、フツーに、トーゼンに、浜を歩めてた。 だけれど今は、一歩踏み出すごとに、足から力が抜けていくようで。 「朝はそんなに暑くないね」 さく、さく、と前を行きながら、僕は振り返る。 カーディガンを持った椎名が、不貞腐れたような顔で見ている。 「むしろ、寒いんじゃね」 俺だってちょっと、さみぃしさ。言い訳するように付け足す。 そんなのばっかりだ。気なんて使ってませんよのポーズを椎名はする。 泣きたいくらいに不器用だ。 「嘘つき」 ボソッとちっさくつぶやいた声は、波の音にかき消されて消えた。 だけど唇の動きで、何を言ったかなんて椎名にはわかってしまう。 逸らされる目。カーディガンを持つ手に込められた無駄な力。 「いいよ。確かにちょっと寒い。それちょうだい」 手を伸ばすと、椎名は慌てて走ってきた。 彼の足は、急にスピードを上げたって、砂の上だって、ものともしない。 「最初から着とけよな」 不機嫌そうな声色で、だけど嬉しそうな笑みが口をかたどっている。 薄手のパジャマだけの俺に、椎名がカーディガンを羽織らせた。 彼の温度が、湿度が、ウールに移っている。 「生ぬくい」 「なんだその造語」 俺を厚着にして、安心したらしい。椎名はフゥと鼻でため息を出す。 風が吹く。腕を通していない袖がバタバタと暴れる。 「ちゃんと着ろって」 お母さんみたいなお小言が椎名の口から出てくる。 はいはい、と適当に返すけれど、袖は通さないまま。 カーディガンの前のほうを右手でまとめて握って、また僕は歩き出す。 椎名が横を歩く。歩幅を小さくしてやる。僕じゃない、椎名のために。 「髪、伸びたな」 「そうだね。抗がん剤、やめたから」 椎名、そこで黙っちゃうからダメなんだよ。 「やめてよかった。副作用、正直きつかったんだ」 笑ってやる。あっけらかんと、言い放ってやる。 椎名は言葉を選ぼうとしている。だけど見つからないみたい。 餌を欲しがる鯉みたいに、口をぱくぱくさせちゃってる。 「お前がそれでいいならいいよ。…って、言ってよ」 正しい言葉を教えてあげる。椎名はおしゃべりがへたくそだから。 「お前がそれで…いいならいい、ケド…」 しぶしぶといったように僕の言葉をリピートアフターミーする。 椎名は自分の首に手をやって、眉をしかめて、僕を見る。 「何か言いたそう」 「別にそんな……」 「治療、続けて欲しかった?」 「智広。」 「僕はもう嫌だったよ」 24時間やってくる吐き気も、関節の痛みも。 抜けていく髪の毛も、頭のなかをたたくぼんやりとした痛みも。 全部全部、もう、それだけで。生きるのが辛くなるばかりだったから。 「今はどこも痛くない」 命のすり減っていく音が、静かに内側から鳴り続けているだけ。 だけれど治す気がないっていうのは、僕より椎名が辛いんだろな。 「ごめんな、頑張れなくて」 「いいよ。……お前はずっと、頑張ってきたんだから」 いいんだよ。消え入りそうな声だ。 椎名の右回りの旋毛がよく見える。もう見慣れた旋毛だ。 「――貝殻、拾いたいんだ」 手伝ってよ。話を変えると、椎名はうつむいたまま頷いた。 二人で白い浜を見る。僕の視界は少し狭くなっている。 けれども昔から、探し物を見つけるのは椎名よりも上手なんだ。 「あった。かわいいよ」 そっとしゃがんで拾い上げた貝殻を椎名に見せる。 桜色の、爪みたいな、ちっちゃな二枚貝。 「それ、持ち帰るのか」 「殺風景だからね、病室」 そう答えると、椎名はぢっと僕の手の上を見て、口の端をゆがめた。 「花とか、いらないって言ってたくせに」 「いらないよ。海が好きなんだもの」 花と貝殻なんて全然違うのに、変なやつだなあ。 そう言って僕が笑うと、椎名は不味いものでも食べたみたいな顔をした。 僕より一回り大きな手が、砂をかき分けて、何かを拾い上げる。 「これ、ガラスか」 「そうだね。シーガラスだ」 「海でガラスができるのか?」 「そういう生き物がいるんだよ。体内でガラスを作るんだ」 大ぼら吹いてやった。椎名は感心したようにヘェ、なんて言う。 僕が病気になってから、嘘ばっかり椎名は言うようになったから。 せめて、このくらいやり返してやっても罰は当たらないだろう。 「あ、貝殻。そこにあるよ、拾って」 「おう。棘だらけだな、これ」 椎名が拾ったそれに手を伸ばすと、危ないと後ろに隠された。 「そのくらいで怪我なんてしないよ」 「ダメだ」 過保護なんだから。そんなやつじゃなかったくせに。 僕はパジャマのポケットに入れていたフィルムケースを取り出す。 「じゃあ、ここに入れて」 「なんだこれ」 「知らないの? スライム入れだよ」 「なんだ、おもちゃか」 これは嘘かどうか微妙じゃないかな。なんてね。 「こんな小さい入れ物、すぐいっぱいになるぞ」 「このくらいでいいんだよ。あんまり持ってたってホラ、仕方ない」 気づいたけれど、僕は椎名のこういうときの顔が好きみたいだ。 なんて言っていいかわからない、迷子みたいな途方に暮れた表情。 あんまり見つめるとかわいそうだから、僕はまた砂に視線を滑らせる。 「また二枚貝だ。同じのばかりだとつまらないな」 「シーガラスも入れるか?」 「いらない。海に返してやって」 椎名は緑色のまるっこいガラスを海に向かって投げた。 綺麗な放物線を描いて飛んでいく。いいな、気持ちよさそうで。 「おい、もういっぱいだぞ」 ほんの少し集中して探しただけで、フィルムケースは貝殻で満ちた。 二枚貝、棘のついた貝、カタツムリみたいなぐるぐるの貝。 名前なんてひとつもわからない。調べたことなんてない。 「ありがとう」 きっちりフィルムケースに蓋をする。振ると、カコッカコッと音がする。 「椎名、ちょっとこれ持って」 「うん?」 受け取って、椎名がフィルムケースに視線を落とした。 その隙に僕は浜を蹴って、海へ向かって全力で走った。 「智広!おい、馬鹿!」 カーディガンをつかんでいた右手が緩む。 袖をはためかせて、若草色が飛んでいく。 ざぶり、と足が塩水に突っ込む。息があがる。 たったこれだけの距離を走っただけなのに、もつれてバランスを失う。 「あぁ、」 手をつく気になれなくて、僕はわざと踵を浮かせて、砂浜へと落ちた。 ざざん、ざざん、海が僕のからだにかかる。靴に、服に、沁みていく。 「智広っ、智広っ……」 「うるさいよ!!」 吠えてやった。のどが痛い、破裂しそうだ。 椎名が僕を助け起こそうと手を伸ばしてくる。やめろよ。 「離せって」 「ダメだろ、風邪引く」 「くそったれ、くそったれ!」 渾身の力で手を払いのけると、椎名は傷ついたようだった。 大きくあけた口を、ゆっくりと閉じていく。諦めたように腕が下りる。 「……横に来て、一緒に、海に入って……」 お願い。笑みを浮かべて僕は言う。椎名の瞳が揺れる。 無理かな。椎名、常識人だもんな。二人分のため息が同時に空中に浮いた。 「これでいいのか」 椎名が僕の隣に座る。え、と目を見開くと、何だよと返事。 「お前がしろって言ったんだろ」 僕の隣に寝転がった、椎名の身体にも、海がかかる。 「あーあ」と、椎名がつぶやく。濡れちまったじゃんか。 「気持ちよくない?」 椎名の手に触れると、ビクッと震えて、だけど握り返してくる。 砂が頬にひっつく。椎名の顔がとても近い。そばかす、まだ残ってたんだ。 「ちょっと気持ちいいな」 「でしょ」 満ちては引いていく。繰り返し、波の音が、僕たちを包む。 生命は海から来たらしい。だけれど、こうしているとそうは思えない。 流れ出してとけていくようだ。残り僅かな命の粒が、体から抜けて。 「椎名、僕はもうすぐ死ぬよ」 「そんなこと言うなよ」 「事実だから仕方ないだろ。いい加減、認めなよ」 「それは」 それは。何だろう。そこから先の言葉を、彼は紡がない。 「死にたくない」 「……そ、うか……」 「っていうのは嘘。もう、そんな気も起きない」 恨んですらいないのだ、いるかどうかもわからない神様を。 椎名に握られた手が痛む。こんなに強く執着されるなら、構わない。 病気になったって、もうすぐ死んだって、いいやって思えたんだ。 椎名のおかげだよ。そんなこと、言ってやらないけれど。 「できることならば」 僕よりも分厚い椎名の肩に懐く。砂まみれの頬を寄せる。 椎名の指が丁寧に僕の前髪を撫でる。椎名の瞳に僕が映っている。 「死ぬときには、隣にいて欲しい」 「難しい…お願いだな……」 そうしてやりたい気持ちは、たくさんあるんだけれど。 うんうん、そっか。あるんならば、十分だよ。 十分、それで残りの命を生きていけるから、大丈夫。 情けない声出さなくったって、わかってるから。 「最期の僕の息を、椎名にあげたかった」 そうしたら僕は、君のなかで生き続けられる気がする。 丈夫で健康な肺のなかで、これからも生きていく椎名を助けられる。 もし後追いなんてしようものなら、死なない程度に呼吸の邪魔してやる。 「だったら、くれよ」 「え?」 「最期のやつじゃなくても、お前の息が欲しい」 真剣な目をしている。茶化しちゃだめなんだろうな、これ。 何をロマンチックしちゃってんのさって、笑っちゃいたいけれど。 まあ、朝の海と、橙が消えて眩しく光り始めた空に免じてやろうか。 「ちゃんと取っておけよ」 僕が言うと、椎名は無言で頷いて、僕に口づけした。 深く、椎名の息が入ってくる。咥内で椎名の息と僕の息が混ざる。 風船を膨らませるように、ブレンドされた空気を椎名に入れてやった。 「やだな、泣いてんの?」 僕の頬に落ちる、大きな水の粒。 泣かなくなった僕の代わりに、椎名はずいぶんと泣き虫になった。 仕方のないやつだ。そんなになっても、僕に死なないでと懇願しない。 不可能なことを言葉にできるほど子供ではないのだ、椎名は。 「智広、俺のこと、好きか」 「今さらだなあ」 めっちゃくちゃ好きだよ、そんなん。 言ってやると、また水滴が落ちてきた。 「生ぬくい」 「だから……何だよ、その造語……」 ずっ、と鼻水をすする音が間近で聞こえる。 「それ、返して」 不思議そうな顔を一瞬したけれど、すぐに察したらしい。 椎名がフィルムケースを僕に渡す。カラコロ、カラコロ、と振る。 「貝殻とか言うけどさ、死骸だよね、これ」 かつて生きていて、そして死んで、残った骨のようなもの。 僕の骨も、こんな風に綺麗に残ってくれたらいいけれど、厳しいかな。 きっと殆ど形にもならない灰になって、骨壺のスペースを余らせる。 「情緒ねぇな、お前は」 「そういうやつでしょ、僕は」 頭が重くなってきた。ずっと海水に漬かっているからだろう。 病院を抜け出してきてこんなことして、怒られるのは確実だけれど。 もう面倒くさいから、椎名に全部任せちゃおうかな。 「ごめん、ちょっと寝るね」 椎名に抱き着いて、僕は目を閉じる。 待てよとか、寝るなとか、勝手にいくんじゃねぇとか。 なんだかそんな声が聞こえてきたけれど、知るものかと思う。 先に寝ちゃう人間には、起きてる側の気持ちなんて、わかりゃしないのだ。 音はもう聞こえない。 ただ、涙のにおいが微かに漂って、鼻の奥でツンと痛んだ。 ―――――― Aパート‐END
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