またコップは重なる

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またコップは重なる

蛍光色の帽子に、揃いのユニフォーム、靴下。靴は歩いたり走ったりしやすいようにスニーカーで、彼女はその健康的で鍛え上げられた足で階段を駆け下りて来る。 一番下まで来るのは観ている方も大変なのに、それを行ったり来たりしているのだから、大した体力だ。うちを手伝ってくれないかなと、絶対に叶わない願いが頭をよぎり、考えを打ち消す。ひとりいれば十分だろう、と。 背には大きなタンク、手には千円札を指で挟んで、その顔は皆、笑顔で、目は常に次に自分を呼ぶ手を探している。 ただ今回ばかりは、彼女は自分しか見ていないのではと錯覚してしまった。 スタジアムは8回裏の逆転満塁ホームランに沸き上がったばかりで、観衆はまずはタオルを、プラカードを、旗を振って、その歓びに浸るのに忙しいから、彼女に祝の酒をくれと注文が殺到するにはあと数分、間がある。 俺の前にしゃがんでコップを取り出した彼女は、そこに背中のタンクからホースをつたわせて、なみなみとビールを注いだ。 「あ、さっきの人!すごーく素敵でしたよ。言っちゃ悪いけど…そんなに積極的な人には見えないですね…そういうギャップが、魅力なんでしょうけれど。これ、奢りです」 悪いよと、ポケットを探る俺を彼女は止めた。 「無理に支払いなんて…やめておいた方がいいですよ。私ね、恋のキューピッドなんです。私にビールを奢られたら、隣に座った方と幸せになれるんです。あーっと…あの夫婦。あちらには3年前にご馳走したんですよ、シーズンが始まると、毎週のようにいらっしゃいますよ」 ありがとうと受け取る俺と、お金を貰わずにビールを渡す彼女とのやり取りを、隣の男はマウンドの選手を目で追うのに夢中で気付いていないようだった。 彼女を呼ぶ声が、四方から掛かり、それじゃあとも言わずに、はーい!と笑顔でそちらに走って行ってしまった。不思議な人だ。 ビールを口につけると、さっきからもう3杯、これで4杯目の苦味と炭酸の刺激が口に広がり、それでも飽きることなく喉を通り過ぎるのだから、これも不思議だ。 「なに?また飲んでるの?」 恋のキューピッドに奢られたとは言えずに、満塁ホームランだからねと、それを少し持ち上げて見せると。 ちょっとちょうだいと、手首を掴まれて、俺の手から彼がそれを飲む。 1杯もいらないんだけど、お祝いだからね、飲みたい気分だと微笑んで言って、それから真面目な顔になって。 「帰ろうか」 攻守が交代するのを見ながら、確認した点数は5対3。俺は、競っているし、なによりも、こんなにいい席だから、最後まで居たいと言ってちびり、ちびりとコップから液体を口に移す。 もう後はなるようにしかならないと、無茶苦茶なことを言って、自分の前のホルダーから紙コップを抜き出して、俺の前からも3つのコップを抜き出している。こちらの返事は聞かないらしい。 この席で、こんな試合展開の結末も見ずに帰るなんて、なにをそんなに急いでいるんだか。 ほらほらと、そこに今持っているのを重ねろとせっかちに迫るから。こんな人だったんだと、新しい一面を見たようで。ならばとゆっくりコップを傾ける。 やっとコップが空になるのを見届けて、それを手から奪われると、全ては重ねられてひとつになった。 ふたりでこの量じゃ、まだまだだなと、隣のブロックに座る、熱心な古参のファンと見られる人物を見てみろと耳元で囁いて、目で指す。 その人物のドリンクホルダーに重ねられたコップは10程も積み上がり、またその手は彼女を呼んでいるのだ。 「やっぱり…まだ居るわ。今帰るなんて絶対に嫌だ。ヒーローインタビューも間近で見られそうだし、なんせこの席は高いんだよ?勿体ない」 「だってぇ…今日の試合は長いよ。もう…9時半だよ?帰るの遅くなる、時間が少なくなるから…1分いくらで計算したら…50円だ。十分元は取ったよ。ねぇ…帰ろう?」 「嫌だ嫌だ。1分いくらで計算すんな、物の価値は時間と金だけじゃないんだ」 隣の男をなだめるように首の後ろを撫でてやると、こちらを見るその目は恨めしそうに細められて、口を尖らせ、あーもうと呟いてから、席を立つ。 「トイレ、行って来る」 「お、山登りか!頑張ってね〜」 手を振って送り出してから15分後、やや息を荒くしながら戻って来ると、きつい…と言って、その手に持ったふたつのコップの一方を俺に渡した。 「運動したから、また飲める」 最後までいる覚悟をしたからか、言いたいことを行ったからか、まだ先は長いと切り替えたのか、気持ちの良い顔をして、乾杯とコップを差し出す。 「乾杯」 俺も同じように差し出した紙のコップは、音をたてずに、少しふにゃりと飲み口を重ねた。
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