最終章:「みえない僕と、きこえない君と」

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 (天使みたいだ)  手話でそう言うと、弥凪は照れたように笑み を浮かべる。  僕に残された狭い視界の中の彼女は、真実、 世界中の誰よりも美しく、たとえ、いつか光 を失う日が来ても、その姿が僕の記憶から 失われることはないと思える。  不意に、弥凪が立ちあがり僕に手を伸ばした。  「弥凪?」  不思議に思って彼女の名を呼んだ僕の頬に、 ハンカチがあてられる。真っ白なそれを見や れば、頬を伝った水分を吸い込んで、小さな 染みが出来ていた。  「……あれ、やだな」  僕はその時になって初めて、自分が涙を流し ていることに気付いた。苦笑いしながら手の甲 で涙を拭う。けれど、泣いているのだと、気付 いた瞬間に次々と大粒の涙が溢れ出し、止まっ てはくれない。  「あれ……あれ……」  ついには、顔をぐしゃぐしゃにして泣き出 してしまった僕に、弥凪は慈しむような笑み を浮かべながら、零れ落ちる涙を拭い続けて くれた。  「あーあー。新郎が号泣しちゃう結婚式っ てどうなのよ?」  そんな声が聞こえて振り返ると、町田さん がティッシュの箱を手に白い歯を見せている。  「感動しちゃったのよね。あんまり弥凪が キレイ過ぎるから」  揶揄うような笑みを浮かべている恋人を、 肘で小突きながら、咲さんはそろそろ時間 だよ、と弥凪にブーケを差し出した。  その言葉に、数枚のティッシュで無理やり 顔を拭った僕は、真っすぐ弥凪を向く。  式が始まる前に、伝いたいことがある。  純白のくちなしの花で作られたブーケを手 に、凛と佇んでいる花嫁に、僕はたったひと 言を伝えた。 ――ずっと幸せでいよう。  ゆっくりと手を動かし、彼女に伝える。  弥凪は僕の言葉にゆるやかな笑みを浮か べ、そうして、ブーケに口付けるように顔 を寄せた。 ――とても幸せ。  それが、くちなしの花言葉だ。  今日の、そしてこれからの僕たちに、 これ以上相応しい花はないのだろう。  淡い光の中で、弥凪が頷く。  その彼女の手を取り、僕は誇らしげに 歩き始める。  いつか僕が光を失っても、 君の世界に音がないままでも、生きてゆこう。 ――みえない僕と、きこえない君と。  二人でいれば、きっと人生は素晴らしい ものになるのだから。  「向こうの、光の広場の手前にハナミズキ の森のようなところがあるでしょう?いまは 白い葉を落としているけれど。あの木の下で、 妻にプロポーズしたんですよ」  広い園内の遠くを指差し、男性が懐かしさ に目を細める。僕はその方向を見やり、緩や かに息を吸い込んだ。  いつも何げなく走り抜けていたその場所 は、彼にとってかけがえのない場所だった のだ。  きっといまその場所に立ったなら、二十年 前の彼と彼女、そうして二人を祝福した通り 過がりの人たちが目に浮かぶことだろう。  「素敵なお話ですね。まるで、一冊の物語 を読み聞かせてもらったような、そんな気分 です」  ほぅ、と夢見心地のままでそう言った僕に、 男性は小さく肩を揺する。  「いやいや。僕の身の上話に付き合わせて しまって……すっかり陽が沈んでしまいまし たね。時間は大丈夫かな?」  パチリとガラスフェイス部分を開けて、 男性が腕時計で時間を確かめる。このベンチ に座ってから何時間が過ぎたのだろう。  西の空は淡い橙色に染まり、雲に影を映し ている。  ふと、僕はあることが気になって彼に 訊ねた。  それは、彼が毎週、一人でこのベンチに 座っていることだった。
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