白雨【8月短編集】

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白雨【8月短編集】

「そろそろ降るかな……」  こめかみのあたりが(にぶ)く痛み始めた。締め付けられるような痛みは、もう昔からのこと。幼い頃からずっと付き合ってきた。どんな薬を飲んでも治らないし、病院に行っても軽くなることはない。この頭痛は家系的なものらしく、父も母も頭痛持ちだ。  だから今更、こんなことで悩んだりはしない。どうしようもないものだから。  しかし今から数分後に訪れる「嵐」のことを考えると別の意味で頭が痛くなる。 「急がないとひどくなるな、これ」  ついに落ち始めた大粒の雨が地面を打つ。地面の匂いが強くなりはじめ、荷物を抱えたまま家までの道を小走りで急いだ。 「おみ、ただい……あーあ」 玄関を開けた途端、目に入ってきたのは床にぶちまけられたオレンジジュースと、粉々に砕けたグラスと、それから床に座り込んで今にも泣き出しそうな顔をした、小さな子供の姿だった。 よかった、まだ泣いていない。これならなんとかなるかと、安心したのもつかの間。 「りょーた……うっ、ふえ、っ、みいぃ……」 大きな目に涙が溢れてくる。海の色をした瞳は一瞬で潤んでいき、ぽろりと雫が流れていった。 それを合図に、次から次へと涙がこぼれ落ちていく。くしゃくしゃの髪と同じ色をした、銀色の尻尾が弱々しく床を叩いた。 「みええぇぇ、りょーた、りょーたぁ……っ」 「あー、よしよし。びっくりしたな?」 「りょーた、いないから、っ、みえぇ」 「悪かったよ。少し買い物に行ってたんだ」 「みいぃぃ」 小さな体を抱き上げ背中を撫でる。必死になって抱きついて、みぇみぇ泣く姿は聞いていた通り、五歳の子供と変わらない気がしてきた。いや、むしろ泣き虫かもしれない。それに寂しがり屋だし。 おかげでこの辺りは水不足とは程遠いんだけど。 「あーあ、泣きすぎて角も出てきてる」 「うぅ……かくす……」 「ん、えらいえらい。ゼリー買ってきたから、食後に食べよう。な?」 「ゼリー!」 途端にぱぁ、と目をキラキラさせた。おみ、お前、本当に単純なやつだな。俺は心配になるよ。 本当にお前を立派な龍神様に育てられるのか。 「おみ、桃ゼリーがいい!」 「ピーマン残さずに食べたらな」 「みぃ……」 ピーマンで泣きそうになるな。いくら神様業界ではまだ赤ちゃんみたいなものだとはいえ、千年近く生きているのならピーマンの一つや二つくらい克服しておいてくれ。 俺だって茄子は七歳で克服したぞ。 「りょーた、みて、角しまった」 「よし。尻尾は出してていいけど、角は傷つくとまずいからな」 「泣いちゃう?」 「間違いなく、みえぇってなる」 「……やだ」 泣くだけじゃ済まないが、難しいことは言わないでおこう。きっとまだ理解できないだろうから。それよりも、今は晩ご飯の方が重要だ。 早く作らないと、今度は龍神様だけじゃなくて、腹の虫も泣き始めてしまう。 「じゃあ俺はご飯作るから、おみは店の看板をひっくり返してきてくれ」 「うぃ」 「それが終わったら手を洗って、準備を手伝って」 「うぃ!」 ぱたぱた足音を立てながら店先に向かう姿を見送り、食材を取り出すため冷蔵庫に向かう。ふと、先程までの頭痛が治まっていることに気づいて、窓の外に目をやった。 「あ、止んでる」 雨はいつの間にか止んでおり、代わりにうっすらと虹がかかっていた。 「りょーた! 手、洗った!」 得意気な声でそう言われ、振り返ると満面の笑みを浮かべるおみがこちらを見上げていた。嬉しそうに尻尾が揺れている。それがあまりにもおかしくて、可愛らしくて、たまらなくて。 小さな体を尻尾ごと思い切り抱きしめた。
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