心の澱

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ

心の澱

蝉の合唱が耳につき、目が覚めた。起きしな、今年も夏がやって来たのだと実感した。一人暮らしのわたしは、定年間近のサラリーマンだ。来年の夏は、何をしているのだろうか。 もう、会社人生とはキッパリ縁を切りたい。とはいえ、定年後の人生を考えると何もせず、暮らしていけるかは心もとない。 そんなことを思いながらも、朝のルーチンをこなして今日も仕事に行く。とりあえずは、まだ会社組織の一員であるには変わりがないからだった。 最寄りの駅まで、歩いて10分ほどかかる。春や秋はちょうど良い距離感だ。途中、公園があって風に揺れる木々の中を通って歩くのが、朝の自然に触れて清々しい気分になる。それが、一日の始まりの気持ちを良くしてくれた。だか、夏の10分は暑すぎ、冬の10分は寒すぎ、歩くことが億劫な距離感だ。 いよいよ、暑くなってくる夏。公園に通りかかった時、またジージーと鳴く蝉の合唱が耳についた。 その時、ある年の夏のことをふと思い出した。まだ若かった頃、わたしと妻、子ども二人と家族で海水浴に行った。海水浴は、毎年のように行っていたが、その年の旅行は特別だった。 なぜなら、その夏を最後に家族旅行をする事がなかったからだ。離婚したのではない。妻はその年の冬、事故で亡くなってしまったのだ。 それから小学生だった子ども二人を抱えての生活が、わたしにぐぐっと覆いかぶさってきた。数十年間、生活は慌ただしく過ぎていった。 今では、子どもたちは成人し、日本を離れてそれぞれ自立して暮らしていた。なかなか会いに行くことが出来ない遠い国だった。 それでも、子どもたちは元気でいると便りを寄越してくれるから安心していた。 ある年の夏、旅行先では夜になっても蝉の声が止まらなかった。寝苦しい。一人旅館を出て、あたりを散歩することにした。 すると、今歩いているこの公園のような場所に出会した。 誰もいないだろう。結構遅い時間だし、昼間はそれなりぬ賑わう海水浴場だが、鄙びたところで旅館も少なかったからだ。 公園のなかにベンチがあった。そこに腰をかけ、一息つこう。ベンチの方に歩いて行きかけた時、突然蝉の声が唸りだした。ジージージーと、耳につく。 一息つくどころではない。 もう帰ろう。そしてベンチの方を何気に見たら人がいた。いつやってきたのか。蝉の鳴き声に気を取られた一瞬の間なのか。 その人は、女のように見えた。項垂れているので顔は見えないが体格からそうだと思った。その人物が項垂れたまま、手を振ってきた。まるで、おいでおいでをしているかのように。わたしは、その人物が気分でも悪いから助けてほしいのかと思い、近づいていった。 「どうかされましたか?」 「どうもしないよ」 そう言って項垂れていた体勢からすっと身体を起こし顔を晒した。女だった。だか、その女の顔から何やらぶつぶつが、出てくる。ぶつぶつは、頬から、小豆のようなもので次から次へと飛び出してくる。 わたしは、ギョッとした。逃げ出したいが何故だか身体が固まってしまい動き出せないでいた。 だめだ。此処にいてはいけない。本能がそう呼びかけるが、動けない。そうこうしているうちに女は立ち上がり、わたしの方に向かってきた。女は旅館で着る浴衣のようなものを身につけていたが、近づくと同時にさっと脱ぎすて全裸になった。 その身体から、頬から出ていた小豆のようなぶつぶつがたくさん湧いて、飛び出していた。身体中で、ぶつぶつを作り飛び出させていたこの女は、人間なのだろうか。わたしは幻覚を見ているに違いない。倒れそうになった時、女に抱きつかれ、わたしは女のぶつぶつに塗れた。そこで、意識がぷつんと切れたのだった。 意識が戻って目が覚めたら、旅館の部屋にいた。ふとんのなかだった。妻や子どもたちはまだ寝ていた。 ずっと、幻覚、妄想のなかの散歩だったのだろうか。腑に落ちず、起き出してカーテンを開けると夜が明け、早朝の空が見てとれた。 その光が眩しかったのか、妻が起きてきた。 「朝早いのね」 にっこり微笑む妻の顔を見たら、小豆のようなぶつぶつが頬に出来ていた。 「どうしたんだい。その頬っぺたのできもの?」 「えっ。何?頬っぺたにできもの?」 いぶかりながら妻は頬に手を当てその感触に驚きだした。それから、鏡を見て途方に暮れたような表情で 「なんだろう。昨晩、寝る前にはなかったのに。いやねえ」そう呟きしゅんとしたようだった。 頬のぶつぶつ。幻覚?で見た女のぶつぶつと同じじゃないか。 また、わたしのなかに落ち着かない気持ちが沸き出してきた。ただ、子どもが起き出して来ると早く朝ごはん食べて、泳ぎに行こうと急き立てられるといつの間にかもやもやした感情が薄れていったのだった。 妻は、その年の冬に亡くなった。頬のぶつぶつは、旅行から帰ると治っていたようだから、あえて話題にしなかった。妻も何も言わなかった。 ただ、事故で病院に運ばれてしばらくは意識があった。家の前で突進してきたバイクに轢かれた妻。たまたま休日で家にいたわたしは、異様な物音にびっくりして家の外に出たら、買い物帰りの妻が血を出し横たわっていたのだ。たまたま、バイクが来るのを見ていた近所の人が直ぐ通報していて、状況を知った。ひき逃げ犯人は見つからなかったけれど、処置が早かったから、即死は免れた。 意識があった妻は、わたしにポツンと一言 「ぶつぶつが、、わき、、だすの、、」 意味不明なことを呟いて眼を閉じた。それから数時間の後に亡くなった。 やはり、何かがあったのだろう。数十年経って思い出すなんて。 ずいぶんと長く回想していたらしい。今日はこのまま会社に行っても遅刻だ。休もう。わたしは戦力外社員だ。急な欠勤連絡をしても、難なく認められるだろう。そう思いながらスマートフォンを出し、電話をしようとしたその時、ベンチに腰掛けた人物がおいでおいでを、している。 止めてくれ。今度は逃げる。逃げてやる。 わたしは、ベンチから一目散に逃げ出した。 走り出すと何やらやる気のなかった毎日まで、去っていくようだった。 来年の夏は、何をしているだろう。 もう前を向いていく。きっと自分らしく人生を楽しんでいるに違いない。 必ず、そうなる。 心の澱を溶かして、もう作らない。作らせないのだから。     
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!