オランジュの幸せ

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オランジュの幸せ

 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆  大きな袋を地面に投げ落とすと、肉がぶつかる鈍い音がした。  その音が合図になったように、真夜中の漆黒の暗がりの中からスッと人が現れた。 「何度送っても無駄だというのに、よくやりますね」 「まったくだ。執念深い兄弟を持つと苦労する」  頭から長いフードをかぶった黒衣の男は、オランジュが置いた袋を軽々と持ち上げた。 「適当に森の奥に捨てろ。川に流すとやっかいだ」 「はい、隊長」 「俺はもう、隊長ではない。お前も監視役なら、ちゃんと見張っておけ。いつだったかみたいに、ランに気づかれてフライパンで殴られそうになって逃げるのはやめてくれよ」 「あ……あれは、失態でした。申し訳ございません」  ランは鍛え抜かれた暗殺部隊の隊員の存在を察知して追いかけるという、普段はぽやっとしているが、時々とんでもない勘の鋭さをみせるときがある。  そんなところも可愛いなと思ってしまい、オランジュは思わず口元を綻ばせた。 「……変わりましたね、隊長。帝国影の暗殺部隊を率いて、数々の国を滅ぼしてきた、殺戮の暗鬼と呼ばれたお方が……、そんな風に笑われるなんて……」 「悪いか? ランの前ではただの男だからな。お前は帝国からの監視役だろう。見たまま、アイツらに報告してくれ」 「はい………、隊長はもう、戻らないおつもりですか?」 「ああ、アイツらに説明した通りだ。今後は静かに過ごしたいと。全ての権利を放棄して、その見返りとして得た生活だ。まあ、しばらくはお前のような監視が続くとは思うが、そのうち飽きるだろう」 「しかし、放棄したとしても、貴方は帝国の皇帝の血を継ぐお方……。望まずとも争いに巻き込まれる可能性はあります」 「俺は庶子だ。それも娼婦の子。皇子として認められることもなく、当然皇帝になれるはずもないし、興味もない。俺が欲しいのはランだけ……あとはもう、どうでもいい」  オランジュは夜空に浮かぶ月を見上げながら、この村に来た時のことを思い出していた。  その任務は任務とも呼べないくらい簡単なもので、わざわざ自分が動く必要はなかった。  皇宮の部屋に呼ばれたオランジュを待っていたのは、皇帝と皇太子、そして若きヴィーヴル公爵だった。 「簡単な任務だ。私の元婚約者を殺して欲しい。罰は受けたが、そいつは冷酷な男だ。ヴィーヴル公からも危険だと再三言われていてな。今後、皇妃に害を及ぼすことになったら困るんだ。その辺りは……お前が見て、殺しが第一優先だが、見極めは任せる」  最初に殺せと言っておきながら、途中から勢いをなくしてしまった。腹違いの兄であるが、つくづくあまい男だなと思った。  そこに声を上げたのは、もう一人の兄だった。 「フィエルテ殿下、そんな弱気ではだめです。ずっとお伝えしてきたではないですか! テンペランスは陰ではいつも殿下と貴妃様への呪詛の言葉を吐き、絶対に殺してやると毎日のよう口にしていました。危険人物です! すぐにでも始末した方がいいです」  どうやらこちらの兄の方は、単純な忠誠心ではなく、個人的な恨みの方が大きそうだと思った。  対象であるテンペランスは、前公爵の後妻の連れ子らしいから、自分の地位が脅かされるのを恐れているのだろう。  もっとも、テンペランスという男が聞いた通り、冷酷で卑劣な男だとしたら、血は繋がらなくともよく似た兄弟だということだ。 「頼めるか、オランジュ」 「ああ」  皇帝の言葉にオランジュは静かに頷いた。  オランジュにとって、この男が一番やっかいだった。  息子とは認めないくせに、手元に置きたがり、時々フィエルテを見る時よりも、熱い視線を注いでくる。  今までは、それから逃れるように影として生きる道を選んできた。  しかし、それも、そろそろ潮時だと思うようになっていた。  皇族の血を引く者だけが持つ神力。常人より優れた身体能力を持つ。高い戦闘能力と、わずかな傷もあっという間に回復する力がある。  オランジュはフィエルテよりも強い力を持っていた。  全て見通しているような皇帝の目が、オランジュは苦手だった。  単純な任務だ。  今までやってきたどの暗殺よりも簡単すぎるくらい簡単だ。  ヴィーヴル公によると、テンペランスは剣の腕は立つらしいが、平民になった男が剣などを持ち合わせていないだろう。  田舎の寂れた教会、遅い時間にもかかわらず、ユラユラと揺れる蝋燭の灯りを見つけて、オランジュはそっと中に入った。  落ちぶれた元貴族のお坊ちゃんは、教会で働いていると聞いていた。  銀髪に青い目、女のような顔で、冷たい目をしているということだった。  そこには、言われた特徴の通りの、暗殺対象であるテンペランスがいた。  一人で窓から星を見上げながら、寂しげな様子で座っていた。  手の中に仕込んだナイフにぎりりと力を入れた。  近づいて首元を切る。  一瞬で終わる。  その時、男の口から漏れた言葉に足が止まってしまった。 「幸せってなんだろう……」  柔らかくて心がくすぐられるような美しい声だった。  月光を浴びたその姿は、まるで月の女神のように美しく、幸せとはなにかと寂しげに溢している横顔はとても、聞いていたような冷酷で残虐な危険人物とは思えなかった。  動揺したオランジュの気配が漏れてしまい、すぐに気がついたテンペランスは、話しかけてきた。  教会と聞いて、ごまかせるように神父の服を着てきたが、本当に神父だと間違われて笑顔で迎えられてしまった。  そう、オランジュに向けて、テンペランスは誰もが心を奪われるようなとびきりの笑顔で微笑んだ。  一目惚れ、そんなものなどこの世に存在しないし、理解できないと思っていた。  それなのに気がついたら、手に仕込んでいたナイフから力が抜けて、月光が水に溶けたような青い瞳に吸い込まれていた。  とっさに出てきたのは、二つ名のパラディ。  名前なんてどうでもいいと思っていたのに、テンペランスの口からパラディと呼ばれた時、血で染まった体の中も全て洗われて、ただひとりの男になった気がした。  それから何度も殺そうとしたが、テンペランスの笑顔を見る度に、手が止まり、心が震えてしまった。  自分の変化が恐ろしい。  だけどそれよりもっと、この笑顔を自分だけのものにしたいと、手に入れたいと思うようになった。  しばらく観察する必要があると皇宮に連絡を入れて、本来赴任してくる予定だった神父を他に異動させた。  どちらかと言えば、元婚約者に少しは情があったのか、暗殺には慎重だったフィエルテはそのまま観察を続けて欲しいと言ってきた。  ただ、業を煮やしたのは公爵の方だった。  父親から家督を継いでまだ浅く、自分の足元がぐらついていた。テンペランスを支持する者達も少なくなかったようで、私怨もあってどうにか殺してしまいたいと刺客を次々と放ってきた。  もちろんオランジュはその全員を、テンペランスには気づかれないように葬ってきた。  夜中に襲ってくるやつもいれば、毒を入れた飲み物を渡してくるやつ、どんどん葬った。  二人でいい雰囲気の時に外から攻撃してこようとしていたやつには、ナイフを投げて瞬殺した。  オランジュの部下が監視役として皇太子から任命されて森に潜んでいた。  立場上は監視が目的だが、オランジュが育てた忠実な部下だったので、テンペランスの警護と、死体の処理にあたってくれた。  だが中途半端な状況は、いつまで経ってもうるさいヤツらが多いので、帝国に戻ったオランジュは部隊から抜けて、全て放棄して二度と関わらない宣言をした。  フィエルテとしては、これ以上影の存在が明るみに出て、力を持って欲しくなかったようで、ホッとした様子だった。  そして、テンペランスはもう皇子や皇妃に対して恨みはなく、静かに生きていきたいと願っていると説得した。  フィエルテはテンペランスの話を聞いて、嫌っているはずなのに、どこか悲しげな顔をしていた。  バカな男というものは、自分を好いてくれていた相手が、別れても自分を好きでいてくれると傲慢な妄想を抱いているものだ。  クソみたいな妄想ごと、斬り捨ててやりたかったが、テンペランスを傷つけたくなくてそれはやめておいた。  公爵も呼びつけて、オランジュが側にいることを条件に、二度とテンペランスに手は出さないことを決めさせた。  皇帝だけは何も言わずにその様子をじっと眺めて、静かに席を立っていつの間にか消えていた。  こうしてオランジュは神父ではないが、偽物神父としてそのまま暮らしていくこととなり、テンペランスを手に入れることに成功した。  一人だけ、どうも納得していない男がいて、時々思い出したように刺客を放ってくる。  オランジュにとっては、害虫を処理するのと同じくらいの感覚なのでテンペランスにさえバレなければいいと思っている。 「ラン様にはずっと秘密にされるおつもりですか?」  部下に痛いところをつかれて、オランジュは言葉を詰まらせた。 「……いや、普通引くだろう。死体の山を歩いて、息を吸うように人を殺せる男だぞ」 「自覚はおありなんですね。ラン様なら、受け止めてくれると思いますけどね。意外と度胸のあるお方ですから」 「………おいおい、いや……小出しにするか」 「いっそのこと、指輪でも買ってプロポーズしたらどうですか? 法は認められないですけど、本人同士がしたと思えばいいじゃないですか」  死体袋を担ぎながら、とても似合わないアドバイスをして部下は森の奥に消えていった。  なかなか良いことを言うなと思っていたら、カタンと音がして、テンペランスが玄関のドアを開けて顔を覗かせたのが見えた。 「オランジュ……? 起きたら隣にいないから……眠れないの?」  目を擦りながら眠そうに家から出てきたテンペランスは、寝ぼけているのかシャツ一枚で前がはだけている扇情的な格好だった。 「ああ、起きてしまって、星を見ていたんだ」 「星を見て何を考えていたの?」  誰か来てあの格好を見られたら困るので、急いでテンペランスに近寄ったオランジュは、背中を押して家の中に戻した。 「ランと初めて会った日の夜を思い出していたんだ」 「ああ……、あの時、すごい恐い顔していたね」 「こ……恐かったか……」 「恐い顔してたけど、すごくカッコよくてドキドキしちゃった」  まだ眠気の方が勝っているようで、テンペランスは家の中に入ると、くたっとしてオランジュの胸に体を預けてきた。 「こんな格好でフラフラ出てくるなんて、ランには自分がどれだけエロいのか、自覚してもらわないといけないな」 「ふふふっ何それ……、んー抱っこして、ベッドで寝よう。オランジュ抱き枕にしないと、もう、眠れないんだよ」  オランジュは、可愛いわがままを言って甘えてくるテンペランスを抱き上げて、ベッドに向かって歩き出した。 「寝ぼけて俺を誘惑するなんて、しっかり可愛がってやろう」 「んーーしてないーー眠いってば」 「好きなんだろう? 俺のこと」 「好きだけど眠い」  ベッドに到着する頃には、クスクスと笑い出したテンペランスは、ベッドに転がるとぐーぐーと言って寝たふりを始めた。  あまりに可愛い態度に、腹の奥まで溶けてしまいそうなくらい好きが溢れてきた。  思わず覆いかぶさって、腹や脇の下をくすぐるとテンペランスはケラケラ笑って、やっとパッチリと目が開いた。 「くすぐるの反則だよ! もー、怒った! 朝まで寝かせないから!」 「それは誘っているのか? 望むところだ」 「……やっぱり寝ようかな」 「寝かせるものか!!」 「キャーーくっ……くすぐったいってばーー!」  夜明けにはまだ遠い。  夜の闇も溶かすほどの熱さで、二人は長い時間をかけて隅々まで愛し合った。  太陽は甘い時間が長く続くように気を利かせてくれたのか、この日の夜明けはいつもより遅かった。  □終□
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