私の観音様

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 女性の容姿についてとやかく言うのは良くないと言う者がいる。それはつまり綺麗な容姿の女について褒め称えると、そうでない女が嫌な思いをする、或いは容姿が芳しくない女について貶すと、そうである女が嫌な思いをするからか。つまりセクハラになるからか。そうは言っても私が前に務めていた会社でルックスもスタイルも悪い女子社員たちの容姿について男子社員たちが何も言わなかったどころか彼女たちに良く思われようと愛想よくした為に彼女たちが付け上がる現象が起きたので私は実に鼻持ちならなくなった経験から面と向かっては言わないまでも何らかの形で女性の容姿についての批評をルックスもスタイルも悪い女たちにも伝えなければならないと思う。  何せ、ともすれば、ブスでも自惚れるもので付け睫毛付けたりマスカラ塗ったりしていい気になってるのを見ても貧乳の女が寄せブラ付けて谷間が出来たと喜んでるのを見ても鼻持ちならなくなり、注意したくなるのが人情というものではないか。  そもそも美人とブスを差別するのは仕方がない事で、それをセクハラに繋がるとして無理に差別しないのを良しとするのは男にとってストレスが溜まるだけだからそこまで無理する必要はないと思う。  それを踏まえた上で人間は何について語ることが最も有意義なことであるかと私なりに考えてみた。そりゃあ人それぞれ関心事が違うし、価値観が違うし、立場が違うし、センスが良いのもいれば悪いのもいて、美意識が高いのもいれば低いのもいて、審美眼があるのもいればないのもいるから一概にこうとは決められないことであるが、私はインターネットが出来るようになってからあらゆる女の乳房の造形を知るに至って女に対する見方が激変したからこれは言えることであって、いつの時代にも通用する関心事と言っても良いから言うのであるが、最も美しい乳房の造形について語ることが最も有意義なことではないだろうかという語るには恥ずかく俚耳に入りやすいようでいて実はセンスが良くて美意識が高くて審美眼を要する高尚な結論に達した。  あの川端康成大先生も、「人間の女の乳房の形だけがあらゆる動物の内で長い歴史を経る内に何故、美しい形になったのか、女の乳房を美しくして来たことは、人間の歴史の輝かしい栄光ではないだろうか」と随分力を込めて言っているではないか。しかし、川端に限らず文豪が乳房の造形について事細かく叙述した文章を私は読んだことがない。私は官能小説なぞ読まないし、自分の読書量が乏しいからそう思うのではなく事実、誰も書いていないと思う。  私の言う文豪とは明治大正昭和初期に活躍した純文学者を指すが、その頃は勿論インターネットはなかったし、性的描写をしたくても出来なかっただろうし、現代程、栄養が行き届いていなかったり栄養のバランスが良くなかったりして豊満で端正な乳房には滅多にお目にかかれなかったからか、しかし、その時代なりに美しい乳房はあったんだろうし、人それぞれの感じ方に因るとは言え、私が少年青年時代(1970年代80年代)に憧れた女性タレントのヌード画像やビキニ画像を見ても中々それらしき代物は見当たらないが、唯一光り輝く物、而もそれは後にも先にも認められない、つまり今見ても最高の代物があったのだ。と私一個人が決めつけてみても十人十色で人には好悪があるし、嗜好がある上、時好があるし、何よりうざいオヤジと捉え、端からお前の価値観押し付けるなとか何とか言って反発し、殊に貧乳の女性が反発し、その代物の良さを分かろうともしない蓋然性が高いが、憚りながらセンスが良く美意識が高く審美眼を持つ貴重な存在である私は、自信をもって言おう。早乙女愛、彼女の乳房こそ最高なのである。彼女の乳房は大きなお椀型を丁寧に整えながら前に引き延ばし、刺激的で煽情的な絶妙のテイストを加味したロケット型と言える代物で前に突き出、張り出すのみならず横幅にもボリュームがある。お椀型では珍しくないが、ロケット型では珍しいことで乳首が上向きなのを見ても分かるが、全く垂れていないこともロケット型では珍しい。従ってどんな姿勢を取っても垂れ下がった瓜のように見えることはないし、丸々とした筋肉の塊のようなパンパンに張った力強さが感じられるのだ。それでいて下乳が弓なりの綺麗な弧を描き、プリンプリンとしていて芙蓉峰の稜線を思わす鎖骨から乳首にかけての優雅でなだらかなラインも麗しく正に絵に描いたよう。おまけに乳輪が濃い目のピンク色をして大輪のバラのように艶やかで乳首もミクロなお尻のようにぱっくり割れて見るからに情欲をそそるのだ。  情欲をそそると言えば、あのほっそりとした肩と腕に引き替え、お乳の太さと言ったら堪らないのであるが、その生々しい肉感が齎すテクスチャーは実際に触れられたなら陳腐に言えば、得も言われぬ物だっただろう。そこは想像するしかないが、何と言うか、奇跡的な造形美は乳房だけではない。天は二物を与えたと言え、顔の造形も実に整っていて或る写真を見た時、これは観音様だ、観音菩薩が官能的に示現した姿だとさえ思えた程である。横顔を見ると、よく分かるが、各面が何という女性らしい甘い円やかな丸みを帯びていることか、それでいてきりりとしてシュッとした、実に凛々しい顔立ちだ。そればかりでない。首と言い、四肢と言い、尻と言い、腰と言い、要するに顔胸以外も震い付きたくなるような艶めかしいラインで構成され、スタイルもプロポーションも抜群でほぼ八頭身。40年前の女とは思えない洗練された女体の黄金比、正に三十二相揃った絶世の美女。  ここまで絶賛すると、欲目で見てんじゃないの、買い被り過ぎじゃないのと言われそうだが、私は掛け値なしに言っているのである。  そりゃあ人間だから完璧ではないが、しかし、何処と言って欠点は見当たらず、普通なら痩せると、胸が萎むものだが、あれ程、見事に乳房を大きく成長させながらシェイプアップした女は極めて稀で彼女以外には認められず、十代の時より二十代の時の方が全然いい女になっていることから彼女の美は生まれつきばかりでなく本人の努力の賜物であることが分かり、私はその一切メスを入れることなく劇的に変貌した早乙女愛の魅力に取りつかれてから女性観がコペルニクス的に180度転回して、どんな女を理想像とするかが確と定まり、彼女以外の美女にほとんど惹かれなくなった。少なくとも今の美女に彼女の持つ大人の色気とカッコ良さを感じないのだ。と言うか、そもそも彼女以外に美女に値するのがいない。私の言う美女とは美しさに於いて顔と乳房が高次元で両立して外貌全体のスタイルもプロポーションも私の審美眼に適った物でなければならない。となると、いないではないか。今は昔と違って胸が大きくてスタイルが良いのがAV界などではざらにいるが、顔が伴うのが中々いないのだ。それには深刻な理由があって、このままでは日本の女は皆出っ歯になると警鐘を鳴らす為、今まで散々書いて来たが、今時の女は幼い頃から柔らかい物ばかり食べて来て下顎が発達していないから上の歯が下の歯より通常以上に前に出てしまい、大抵、出っ歯になるのだ。で、みっともないアヒル口になり、最近の漫画の少女趣味に侵された軟弱男が好きそうなきもいキャラみたいに顎がとんがる傾向にある上、便利になり過ぎた世の中で自分で考えたり手先や体を使ったりする能力を養われずに育った所為か、泥に塗れ手垢に塗れといった感じではなく、そら、男でも女みたいに綺麗な手をしているではないか、で、苦労が少なくて年の割に若い、そら、今の25歳の女性タレントと早乙女愛が25歳の時と比べても今の女性タレントの方が全然子供っぽいではないか、おまけに平和ボケしてる所為か、芯が抜けたようなポア~ンとした人間味のない無機質でのっぺりしただらしない感じがあるからとてもじゃないが、気品のある顔にはならない。  昭和の頃は気品のある女優が沢山いたが、今はいないのだ。だから観音様が私の目の前に降臨してくれないかと思って早乙女愛に変わるオルタナティブな女をネットで探しても絶対見つからいないのだ。  そこまで言うかとそれ程までにして私が絶賛する早乙女愛が何故、役に恵まれなかったのか、それが残念でならない。あの当時ずば抜けたナイスバディとルックスに加え優れた運動能力と甘い声を生かせば、峰不二子役も出来たはずだが、ルパン三世の実写版はまだなかったし、あの類稀なるナイスバディとルックスを生かそうとグラビアアイドルみたいにビキニ姿にしてイメージビデオでも撮れば、バカ売れしただろうが、そういう企画を思いつくような人物が芸能事務所にいなかったし、映画監督も写真家も早乙女愛の魅力を充分引き出せる人物がいなかったのだ。就中、早乙女愛がやれば大当たり間違いないという役を貧乳の女優にやらすというのは全く以ていかがなものかと思う。美しい物を披露することは恥に値しないが、出っ歯女が歯を剥き出しにして笑うように見っともない物を見っともないとも意識せずに披露することは恥に値する。披露させる側も無意識に貧乳の女優に恥をかかさせていた訳だが、目の付け所が悪いと言うか、どうも早乙女愛は正当に評価されず、メジャーな女優になり切れなかった。例えば早乙女愛がヒロイン役で出演していたテレビドラマシリーズ「ハングマン」に初代ヒロイン役として出演していた夏樹陽子は、貧乳にも拘らず出版したヘアヌード写真集を見ると、よく分かるが、早乙女愛とは比較にならない位、スタイルもプロポーションも悪いのに押しも押されもせぬメジャーな女優と認められていたから私が大いに不満に思うのも無理はない。  本当に嘗ての文豪が見たらその美しさに舌を巻くであろうし、他の女優と比べてモノが違うのであって紛れもなく白眉と言え、どう見ても断トツで早乙女愛が魅力的だったのになあ、何でだろうなあ、おっぱいが大きいのが却って反発を買ったのか、それは女にはそうだろうけど、男には当てはまらないよな、では時代が早乙女愛に追いついてなかったのか、そう言えば、あの頃は親しみやすさとか可愛らしさとか純和風とか、そういう事が重視され、そういう面がない訳ではなかったが、今時の女を古く感じさせる程ソフィスティケートされた感じやイッツクールな感じがそういう面をスポイルして俗受けしなかったのかも知れず、あの可憐な笑顔を飾る左笑窪を100万ドルの笑窪と称して日本版ブリジットバルドー的な国民的国宝級セックスシンボル扱いしても良かったくらいなのに如何せん日本は欧米のようにナイスバディを売りにしたセクシーな女優を偶像化する文化が無い所為で早乙女愛自身も何で私がこんな女優より下っ端扱いされなきゃいけないの?と歯がゆい思いをどれだけしたことだろうと思う。いやほんとに新ハングマンを見れば(或るサイトで見れる)私のここまで言う気持ちが分かるかもしれないんだが、日本人はカッコいいよりかわいいかわいいした感じの方が好みのようで兎角この世は評価されるべきことが評価されず、評価されるべきでないことが評価される不条理というものが厳然とあり、その所為で早乙女愛は不遇だったと言わざるを得ない。見た目だけでなく女優としての演技力も素晴らしかったのだし・・・早乙女愛は女優としての資質と真剣さに於いて誰にも引けを取らず、軽薄な人間が多い中で女としての重みと人間味を強く感じさせる女優だった。  だからこそ早乙女愛はあっけらかんと脱げる女では努々なかったが、ロマンポルノ映画に出演した所以から挑発的でエロいイメージを持たれかねないのも残念なところで、それは全く短絡的な偏見であってポルノ映画らしい過激なシーンはポルノ女優が演じていて早乙女愛自身は極ソフトな露出の少ないシーンしか演じていないし、その後もエロ路線に染まることなく堕落することなく正真正銘の女優であり続けたということを読者には理解していただきたい(今の濡れ場を演じる女優の方がよっぽど過激でポルノらしいし、AVっぽい)。但、綺麗事が大嫌いで女の本性を晒け出そうと体当たり的な演技で女の欲を演じ切った(それこそ女優らしく)のは確かで、びっくりする程、多彩な表情によっても男を魅了し、悩殺し、興奮させ、今も助かっているファンは少なくない。私なんかはあの軽蔑すべき唾棄すべき見下げ果てたAVから目覚めさせてもらったくらいだ。だから早乙女愛を観音様と拝むことも有る次第である。  低画質画像でしか紹介できないのが残念。いずれも新ハングマンに出演していた時の早乙女愛(24歳)。1983年だから女猫(ロマンポルノ映画)を撮った時と同じ年であるが、それとはイメージが全然違うことに私は改めて驚かされる。メイクの違いや日焼け具合でこうも変わるものなんだなあ・・・私は女猫の時より色が白くてメイクがあっさりした新ハングマンの時の方が好きだ。1a0cf737-71a5-47f5-878f-4a636d90a28daa4cc3b1-205f-45d5-88a9-e81d47726354    47a6d0c1-bbae-4f91-a793-b58988a6d15fb7e4b028-3e35-4e8b-a981-fb5dd531401e3a77463b-1896-44cf-b63b-de17905c6b053f84765a-15f1-4426-a24b-d06303ac1af7a19be722-710d-4a4a-884d-89cdcad1797151989152-b7da-464d-90c3-63f205adc00eaa385ba1-fae9-4afc-aa34-ff3797476b74
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