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1章 宇七、江戸にて偽侍になる。
(一)堤重娘と石切男
「おい、頼むから、そんなにいい声を出さんでくれ…」
宇七は汗ばんだ顔をしかめる。声が大きい。いや、声の大きい女は嫌いじゃない、が…まわりがどう思うか…
商売を終えた堤重のおたねは、そそくさと身支度をする。
「今度は、いつ会えるかな。」
後ろから声をかけるも、おたねは振り返らない。商売人は金を貰ったら後ろは見ないものだ。
田沼時代と呼ばれる、良くいえば自由、悪くいえば風紀の乱れた明和ー天明年間。
江戸では格式ばった吉原よりも、岡場所が繁盛している。武家屋敷を巡り歩くのは堤重と呼ばれる私娼たちだ。重箱に菓子を詰め、行商を装っている。江戸屋敷に暮らす田舎侍どもは、藩邸に堤重娘を呼び、菓子とひとときを買う…
「おぉい、よろしいかな…」
宇七が着物を着たころを見計らったように、老仁左衛門があらわれた。仁左衛門は宇七の口元についた粉っぽいものを見ると、にやっと笑った。
「また、菓子を買うておったのう…」
「はあ。」
「あの娘、なかなかの人気者だが、おぬしのとこでさんざん良い商売をして帰ってしまう。最近は声がするばかり、美味い菓子が手に入らんと、若い連中が不満じゃ。」
返答に困る。
「少し控えてはどうだ。」
「はい。」
「…さて、ところでどうかな、下の様子は。そこもとの下ではなく、土の下のことであるが。」
「しごく順調に進んでおります。」
「そうか、そうか。ご苦労なことだ。」
出ていくかと思った仁左衛門はくるりと振り返って凄みをきかせた。
「…それとな。小豆は禁忌じゃ。煮ると赤い汁が出て腹から割れる。腹切り豆じゃ…それから…」
何かというと腹切りを持ち出して脅して働かせようとするのが、この仁左衛門という爺のいつもの手口だ。
「…遊女相手に菓子の口移しはやめておけ。瘡をかくぞ。」
お目付け役ご苦労様である。
襖の向こうから、何の菓子を、どうやって食ったかまで聞かれていた。宇七は耳まで赤くなった。
(二)騙された偽侍
「宇七、お前は見どころがあるから、うちの養子にしてやる」
宇七は石切親方の七男坊だった。だから宇七だ。それほどぱっとしない宇七に、普請頭からの呼び出しが来たのは数年前のことだった。普請頭の養子に入ると今度は、旗本様が宇七を気に入って養子にご所望という。
あれよあれよという間に強引に話は進み、宇七は武家風の行儀作法と立ち居振る舞いを叩き込まれた。
職人の七男坊が侍になったのは、傍から見れば出世だったが、寡黙な石切親方の父は、このおかしな養子縁組について、ありがたいとは一度も言わなかった。
宇七自身、この養子縁組の真の目的を知ったのは、江戸に到着してからのことだ。
「これは他言無用の隠密行動である。日中はこの水野家の御屋敷の地下にて、土を掘ること。」
「…はっ。」
養子縁組を重ねて格式ある武家に迎えられたのは、石切職人が江戸屋敷へ出入りするのを怪しまれないため。売り飛ばされた気分だった。
なんとか平静を装い頭を下げたものの、かーっと耳鳴りがした。
掘るように命じられたのは、ひとり通れるぐらいの細長い地下廊だ。素掘りの水路か、と思ったこともあったが、おそらく殿様なんかが使う秘密の地下道だ。一族の言い伝えでも、籠城しているお殿様を敵から逃がすため、城の地下から遠くの井戸まで穴を掘ったという話がある。宇七たちは昔から、そういう御役目の一族らしい。
宇七のふるさとは質の良い石が切り出されることで有名だった。なかでも宇七の育った村は深い地層に石が眠っており、宇七たちはその石を掘り出すために特別な技を伝承していた。
深い縦穴を長い横穴へと自在に掘りつなげ、網の目のような坑道をつくることができる。
地質や地層を見分けられぬ者が下手にこれをやると、一気に坑道内が崩落して職人ごと埋まってしまう。近隣の村でも深いところの石を掘るときは、高い銭を払って宇七の一族から職人を借り受けていた。
そんな石切りの村で、一番若く、怪我をしたことがない石切職人。それが宇七だった。
江戸屋敷で一緒に作業する侍は2~3人ほどだが、ぜんぜん使い物にならない。
地上で育った奴らは、地中でたった半日、作業をすることもできない。うぅ~っと唸って飛び出して行って、それきり姿を見なくなったやつもいる。
地下道が長くなるにつれ、崩落の危険も高まっていく。侍たちはおっかなびっくりで奥へは寄り付かない。掘り出した土を背負子で運ぶ回数も減らす始末だった。
だから宇七が作業に没頭して、うっかり蝋燭の灯りが途切れようものなら、暗闇をひとりで手探りで戻っていかねばならない。
使えない侍たち以外にも、いくつか文句がある。
ひとつは、気味悪い骸骨だ。
この辺りはかつては江戸の外れ、関八州最大の処刑場があったと聞く。とにかくすごい数の骸骨が出る。古いもの、新しいもの…最初は丁寧に取り去っては南無と唱えていたものの、途中からは開き直ってつるはしで砕いて進むようになった…化けて出られても文句は言えない。
それから、江戸の地層はおしゃべりすぎる。
故郷の石切り場では寡黙な岩が相手だったが、江戸の土ときたら、何層にも重なる、人間が暮らしてきた土だ。とにかく事情が多くて面倒だ。それを察して掘り進めるのが仕事とはいえ、面倒。この地層はいったいどの時代の何だろう…そう気になり始めると、宇七はけっこう考え込んだりするのだった。
江戸の大火は数回と聞くが、じっさいに掘ってみるとこの辺り、何度となく大火に見舞われている。焦土は独特であるため、すぐに見分けがつく。
ーこんだけ人が多い土地で、こんだけ火事が起こりゃ、人も家も焼けるだろうさ。御公儀も、なんとかすりゃあ、いいものを…?
宇七は骸骨と焦土を見ながら、今日もぼやく。
(三)雨夜の品定め
じめじめと長雨の降る季節がやってきた。
出入り口がひとつの長い通路は、水が流れこめばあっという間に地獄の水棺となる。早く早くと工事を急かす連中も、さすがにしばし休め、という判断を下した。
宇七は空を眺めては、早く堤重が来ないか、と退屈にため息をつく。他の若い侍たちも、じとじと降りしきる雨を恨めしく眺めながら、こっそり菓子、いや堤重の話ばかりしていた。
「あれ、あの娘が持ってくるおてつ餅。」
「ほう。あれがどうした?」
「あれは偽物じゃ。まっ赤な偽物。番町に出張ったとき、本物を目にする機会があったが、小さな三色団子だった。あの堤重娘が持ってくる田舎風の牡丹餅は、まったくのまがい物だ!」
「ははは。堤重に正直を求めても仕方あるまい。おてつふうの餅で良いではないか。」
「しかし騙された。今度来たら半値だ。」
「ははは。堤重を半値に値切るとは、みっともないぞ。時間も半分にされるぞ。」
「半分しか入れさせないとかな。」
侍どもが爆笑する。
若侍連中の噂しているのは、宇七もご執心のおたねだ。人気があるので何かと噂に上る。
「左様か、娘が持ってくる名物菓子は偽物か。」
宇七は適当な顔をしていたが、娘どもが菓子を高く売ろうと嘘をつくのを責める気分にはならない。今日を生き残るための嘘だ。生まれつきの宮仕えどもには、わからんだろう。
堤重たちがいっこうに現れないので、宇七はぼんやりと洒落本の筋書きのような妄想をして布団にもぐり込む。
おたねのことを考えているときだけ、蝋燭の灯りだけで掘り進む、陰気な狭い一本道を忘れられる気がした。
ーああ、いつこの仕事は終わるんだろう…
宇七は寝床でため息をつく。
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