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 見知らぬ老人に出し抜けに話しかけられ、川村が怪訝(けげん)な目を向ける。  老人はしわがれた声で、「すいやせん、あたしが知ってる話とすこーし違ったもんで、つい聞き耳を立てちまって」 「違うとは、どういった……」川村が憮然(ぶぜん)と訊き返す。  老人は川村には答えずに、 「お嬢さん、指切りげんまんしたことあるかい?」と、摩莉子に目を向けた。  どろんとした目の土気色の老人に摩莉子はたじろいだが、 「指切り……はい、子どものときに……」と、答えた。 「その指切りはじめたんは、吉原の遊女なんよ」 「吉原の……」川村がつぶやく。 「そう。ぎょうさん男を(くわ)え込む遊女も一人の女。客に惚れちまうこともある。その惚れた特別な相手に、自分の小指を、切って送る。そんな風習が江戸の昔からあってねえ」  川村は喉が渇いたのか、ビールをごくごくと飲み、 「それと、澤田さんの話がどう……?」 「昔さゆりって名の遊女がいて、そりゃあ情が深い女だった。さゆりは惚れた男と駆け落ちの約束をしてな。で、指切りして約束を交わした。さゆりはその男に、自分の小指を喰いちぎって送った。ところが、男は他の女に気持ちが移っちまって、さゆりを裏切った」  ごくりと川村が喉を鳴らす。 「駆け落ちの企みを知った置屋の(ばばあ)激昂(げきこう)した。さゆりがべっぴんだったもんで嫉妬もあったらしい。さゆりは来る日も来る日も、股座(またぐら)が乾く間もねえほど客を取らされて、最期は梅毒が脳にまわって発狂して隅田川に身を投げた……可哀そうにねえ……」  息を呑む摩莉子に、老人が空のグラスを突き出す。 「あたしにも一杯いただけるかい」  あ、はい、と摩莉子がビールを注ぐと、静まり返った会場にとくとくとくと静かに音が響いた。いつの間にか、通夜振る舞いの客はまばらになっていた。  老人は(しわ)だらけの唇を潤すと、げっぷを一つ吐いて続きを話した。 「さゆりは、成仏できなかったのか、死んで幽霊んなってからも、吉原に現れちゃあ客を取ってねえ。で、寝た男に、私を連れて逃げてって約束させる。幽霊だって気付いた男が冗談じゃねえって怖くなって逃げようもんなら、さゆりは何処までもそいつを追いかけて、(しま)いにゃあ男の小指を喰いちぎる」  川村がはっと見開いた目を、恐々(こわごわ)と自分の手の指に落とす。その様子に摩莉子は、澤田会長が旋盤で小指を飛ばした話を思い出した。 「それで……男は、どうなるんですか?」 「死ぬまでさゆりから逃げらんねえ。幽霊のさゆりと寝るたんびに、生気が吸い取られる。死んでようやく解放される。ところでお嬢さん、指切りげんまんの続き、知ってるかい?」  摩莉子は首を左右に振る。  老人はうんと頷くと、くぐもった声で節をつけて唄いはじめた。 「指切り拳万(げんまん)噓ついたら針千本のーます、指切った。死んだらごめん」 「死んだらごめん……が続き?」 「ああ。死んじまっちゃあ約束は守れねえ。守れなくてもごめんで許すってことだ」  澤田が死に急いでいたのは、さゆりと逢いたかったからじゃなくて、さゆりの亡霊から逃げたかったからじゃないのか。摩莉子は身震いした。  老人が続ける。 「お焼香のあと、(ほとけ)さんにお別れさせてもらいやした。棺桶の中の澤田さん、ほっとしたようなお顔に、あたしには見えました」  そういって老人は、薄ら笑いを浮かべた。  薄気味の悪い話に二人が沈黙していると、 「おや、せっかくの寿司が干乾びちゃもったいない、いただきましょう」と、老人がテーブルの下から右手を出し、寿司桶にすうっと伸ばした。その皺だらけの右手には、小指が無かった。 ー 終 ー
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