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午後の講義は眠い。 日当たりのいい階段教室の窓際で、昨夜の残りの竜田揚げを詰めた弁当でお腹も満たされていれば、それもしょうがないかって気になる。マイクを通して聴こえる初老の教授の声は、肌触りのいいタオルケットのように柔らかく、いつか行ったプラネタリウムでリクライニングシートに身体を預けて聞いた解説のお兄さんの声を思い出す。天井いっぱいに広がった星空を眺めながら、ああなんて眠りを誘う心地よい声なんだろうと思ったんだ。その証拠に、次の瞬間周囲のザワザワする気配にハッと目を開けたら上映はすでに終わっていて、隣から「あっという間に眠ってたね」とククッと笑う声が聞こえた。あれは誰の声だっけ。僕は誰とプラネタリウムへ行ったんだっけ……。そのとろりとしたまどろみをピリッと破るように、下腹部のあたりに短く振動が走った。パチンと目が開く。パーカのポケットから取り出したスマートフォンの画面には、 『グッダフタヌーン! 営業先でやっと昼メシー。 今日は鴨せいろ』 樹貴(たつき)さんからのメッセージだった。 ピラミッドのように形よく盛られた白麺のそばに、鴨肉と焦げ目のついた親指ぐらいの大きさのネギが浮かんだ出汁。右半分には樹貴さんの顔が写り込んでいて、前髪を上げた額と切れ長の目、笑ったときの上方向にカーブした唇が見える。 『おっと、学生サンは講義の真っ最中かな。 いただきまーす』 呑気な一文とともに、今度は鴨肉にズームした写真が送られてきた。十歳も年上の有能な営業マンに向かって呑気なんて言っちゃ失礼か。樹貴さんは医療機器を扱う会社で営業をしていて、毎日のように病院や診療所へ足を運んでいる。知り合った頃にそう教えてくれた。 『今日は遅かったんですね』 『授業中に返信きたー! 手術が終わるまで待機してたらこんな時間だった』 『お疲れ様です。鴨せいろのおかげで眠気が吹き飛びました』 『寝てたのかー! エムくんは今日もお弁当?』 エムくん。僕をそう呼ぶのは世界中でこの人だけだ。 『もちろん。でも昨夜作った竜田揚げの残りとか、適当です』 そう返した瞬間に、『た、竜田揚げーー! 食いてーー!』という雄叫びとともに、カラッポのお皿を頭に乗せた犬が「hungry!」と吠えているスタンプが送られてきた。あは、思わず頬が緩む。席をひとつ空けて横に座る木之下がさっきからこっちをチラ見していて、周囲を気にしながら中指の先で机を叩き「メール? 誰よ? 相手」と小さな声で聞く。けど、無視。 『樹貴さん、今夜時間ありますか? ちょっと話したいことがあって』 『あるある! 二十二時頃になるけどいい?』 イルカが「了解だよ」とウインクしているスタンプを送り、既読になったのを確認してからスマートフォンをカバンに突っ込んだ。視界の隅では木之下が相変わらずうるさい顔をしているから、人差し指を口に当てて「しーっ!」と返した。 「さっきのアレ、ひどくない? 宮澤が誰かとメールしてるなんて驚きだわ」と木之下がこっちを振り返り口を尖らせる。ひどい? 僕が樹貴さんにメッセージを送っていたことが? そんなことより、階段を降りるときは危ないから前を向け、という僕の忠告をこの男はまったく聞こうとしない。 「おれさ、一年のときにはじめて宮澤に話しかけたその日に、アドレス教えてくれって言ったよな。それ、覚えてる?」 もちろん。十八年生きてきて、初対面でこんなことを言うヤツに出会ったのは生まれて初めてっていうぐらい鬱陶しい絡み方だったから。けど今それを蒸し返されるのも時間の無駄だから、「覚えてない」と返す。木之下は「くーっ、相変わらずしょっぱいなあ」と嘆きつつ、「もう三年目ともなると宮澤の高濃度の塩対応にも慣れたわ。むしろ相変わらずすぎて心地いい」そう言うとまたしてもこっちを振り返り、「で、さっきメールしてた相手は誰? 彼女?」と食い下がる。 「別に」 「えっ、別に……って、いま否定しなかった? よなっ?」 メガネの奥の木之下の目に、必死という字が見える。 「ちょ、あのさ、おれが宮澤のアドレス教えてもらったの、一年の秋だからね? 四月に出会って、そっから半年近くずーっと『大学で顔合わせるんだし別にメールで話すことなんてない』とか言われ続けて」 それも覚えている。あまり思い出したくないけれど、初対面のときこの男は僕を見るなり「あ」と小さな声を上げ、不快なぐらいまじまじと人の顔を眺めながらこう言った。『ねえ、きみさ、ディカプリオに似てるって言われない? あ、今現在のディカプリオじゃなくて『バスケットボール・ダイアリーズ』に主演した頃の、ナイーブでいちばんイカしてたディカプリオ。それをちょーっと薄暗くした感じの顔してる』と。 小学生のときに姉とアニメ映画を観に行って以来映画館からは足が遠のいているような僕ですら、その俳優は知っている。それほど広くない教室で、目をキラキラさせ大きな声で興奮気味に話す木之下と、超セレブ俳優の名前が耳に飛び込んできたものだからどれどれと群がるも、「あれがディカプリオ?」、「たしかに薄暗……」とわかりやすく白ける学生たち。その間で居たたまれない思いで立ち尽くす僕の気持ちがわかるだろうか。 木之下は木之下でそんな空気を一ミリも気にかけることなく、「おれ映画が大好きでさっそく映画研究会に入ったんだけどさ。あ、おれは役者志望じゃなくて撮る方なんだけどね……」と、聞いてもいないのにまくし立てる。悪気なんてさらさらなくて、だからタチが悪いともいえる。僕はそんなヤツにアドレスを聞かれたところで、教える気になれなかった。 それなのに。なんで今こんなふうにつるんでいるのか。 文系、理系、大学院に病院まで揃った大学は、ちょっとした街ぐらいの広大な敷地面積がある。にもかかわらず、この男ときたら神出鬼没というか、とにかくあちこちでよく出くわした。同じ経済学部だから授業がかぶるのはどうしようもない。とはいえ、構内にはティーラウンジだってカフェだって、書店やコンビニだっていくつもある。それなのに、なぜか三日と間をおかずどこからか「おーい、宮澤ぁ!」と大きな声で僕の名を呼ぶ男が現れ、そいつは常に満面の笑みで僕に手を振ってくる。僕はもともと愛想がいい人間でもないし、今住んでいるこの街は僕の生まれ育った場所ではなく、そういう環境から遠く離れたくて僕を知る人のいないこの街にやってきた。そんなややこしい人間がどんなに邪険にしても木之下はめげないどころか、「今度一緒に映画観に行かね? ちょうど今面白いのがやってるんだよぅ」と誘ってきたり、頼みもしないのに「宮澤のために『人生でこれだけは観ておいた方がいいに違いない映画リスト』作ったぞ!」と目を輝かせたり。僕は僕でその都度、「映画なんか観ないし興味ないから」と冷たくあしらってきたけれど、本っ当に空気を読まないどころか、こうまで自分を貫けるってある意味すごいのかもしれないと木之下に対して思いはじめていた。そうやって少しずつこの男に感化されていったのかもしれない。名を呼ばれたら「なんだよ」と返すようになり、昼どきはテーブルを囲むようになった。 「この前、ウチの映研の後輩が構内で宮澤を見かけたらしくて、『木之下先輩とよく一緒にいるイケメンさん、普段はぽつんとひとりでいらっしゃるんですね』って。やっぱ宮澤はこうシュッとしてるっていうか、男前だから目を惹くんだよな」 「へー」 「けど、そのポツント宮澤がおれ以外にいつの間にそんな、彼女なのか女友達なのか知らないけどそんな関係の人ができて、しかも授業中にうっすら微笑みながらメールするような間柄になってるなんて。おれには教えてくれたっていいじゃないかよぅ」 「それより後輩に言っといて。『知り合いでもない僕みたいな人間を、いちいち監視するような真似しないでくれ』って」 木之下が「まあまあ、そう言わずに」まで口にしたところで、背後で「センパーイ!」と呼ぶ声がした。噂をすれば映研の後輩らしき数人が木之下に手を振っていて、端に立っているすらりとした女子がぺこりと頭を下げた。前に木之下が『映研始まって以来の超絶美形な新入生』と話していた後輩だろう。僕はバイトへ行く前にゼミ室に寄りたかったから、じゃあなと木之下に背を向けた。まだ全然話し足りないんですけど、と書いてある木之下の顔はいつ見ても面白い。
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