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「ちょっと、伸幸さん。何してんの? それ、何」
瞬は、台所で何やら箱を開けている伸幸を見とがめ、厳しく訊いた。
「や。これは、そのう」
瞬は立ちあがって伸幸の肩ごしに箱の中身を確かめた。
伸幸が背後に隠そうとして、隠しきれなかったのは。
炊飯器だった。
「ヤメロって」
瞬は伸幸をじろりと睨んだ。
伸幸は昨日どこかから戻ってきたときに、こいつも仕入れてきたらしい。
「いや、だってさあ、やっぱ米のメシ食いたいじゃん」
「んなもん、どっか行ってるときにそっちで食えばいいじゃんよ。何も俺んとこで炊こうとしなくても」
「だって、瞬の作る料理はうまいからさあ。一緒に白いメシがあったらどんなにうまいかなって」
伸幸は上目づかいに、「和食がとくにうまい」と瞬の料理の腕をほめた。
瞬は時計を見た。
「じゃあさ。今から浸水して、夕食の米は三時台に炊いて。俺その間どっか出てくるから」
「はい」
「窓開けてしっかり換気しててね」
「はい」
「どっかで時間つぶしてあげるんだから。その分のこづかいもちょうだいよね」
「はい」
伸幸は嬉しそうにポケットから無造作に万札を一枚引き抜き、瞬に手渡した。
「こんなに要らねえよ。五、六百円でいいんだよ」
「うん。でも、また炊くから。そのときの分も。前払い」
「はっ。計画的犯行かよ」
「っていうか、サイフ使えよ」と瞬はブツブツ言いながら、渡された万券をしまった。
これで、しばらく伸幸がこの部屋で米を炊く権利を認めてしまった。
(大丈夫かなあ……)
一応バイト先では、倒れて以来、米飯の盛りつけチームには配置されていない。が、作業中、別室の米の香りは少し流れてくる。
(あのくらいなら耐えられてるんだから。換気さえしっかりすれば……)
換気だけで米の炊けるニオイが散らなければ、もっと濃い別の、瞬の耐えられる香りをかぶせる方法もある。
「じゃあ、今朝コーヒーを淹れてくれたのも、いざとなったらコーヒーの香りで米のニオイを飛ばしちゃおうって魂胆か」
「あはは……」
伸幸は笑っている。
「もう。頭のいいひとが本気出したら、手に負えないよ」
瞬はあきらめ、肩をすくめた。
夕食は、伸幸のリクエストで和食。
米のメシに合う肉じゃががご所望だった。
初めて伸幸が転がりこんできた日に作った献立。
あのときより調味料がそろっているから、うまく作れる。
つけあわせにはさっぱりとワカメとキュウリの酢のものを用意する。出汁を加えて、三杯酢は一度煮かえすと、とげとげしい酸味が飛んでまろやかになる。
ついでに、冷蔵庫に残っていた小松菜と揚げをみそ汁にする。
箸休めに、ナスを軽く漬けておいた。
まあ、どちらにしても、煮かえした三杯酢が冷めるのを待ちながら、芋に火が通るまでぐつぐつ煮込むだけで、後は大した手間でもない。
瞬は切れ味のよくないアルミの包丁で、手早くそれぞれの工程をやっつけた。
「手伝えることあるか?」
伸幸が後ろから、瞬の肩に顎を載せてくる。
「ん。とくにないよ」
瞬は自分の顔のすぐ横にあった伸幸の頬にチュッとキスをして、伸幸を追い払った。
「あ。皿出しておいて」
伸幸は大人しく瞬から離れ、嬉しそうに「これでいい?」と出した皿を瞬に見せた。
「ああ、うん。それそれ。俺が呼んだら持ってきてね」
「はーい」
伸幸はテーブルで、何か本を読みながら、瞬の作業が終わるのを待っている。
夏の陽は長く、外はまだ明るい。
今日はふたりで午前のうちに買い出しに出かけ、昼食は買ってきたパンで軽く済ませた。午後は手分けして掃除をした。狭いワンルームの掃除はひとりでやってもすぐ終わるが、伸幸がいてくれるので水回りを頼めてラクだった。
「上がったよー」
瞬は湯気の立つ肉じゃがをテーブルに運んだ。
「じゃ、俺みそ汁よそうわ」
「あ、うん。ありがと。頼むわ」
瞬がその他の皿をテーブルに運ぶ間、伸幸が椀に汁をよそう。
「保温は切ってたから、もうそんなに匂わないと思うんだけど……」
伸幸が遠慮しいしい、自分のために茶碗によそった白米を持ってきた。
「いただきまーす」
瞬は自分の作った料理に箸をつけた。
「…………」
「どうした? 瞬」
「……おいしい、かも」
瞬は肉のうまみをよく吸ってほかほかしているジャガイモを味わった。ほのかに出汁の鰹節の香りがする。
中火で炊いて、煮汁を飛ばすと、具材に味がよくしみる。百ぺんも二百ぺんもなぞった、ルーティンの作業だったが。
(それは、こういうことだったんだな……)
昔、ちゃんと仕事をして、味見もできていた頃には、理解していただろうか。
味覚があることが当たり前すぎて、「味わい」とは何なのか、本当には分かっていなかったかもしれない。
瞬は数ヶ月ぶりの「味」に、しばらく無言で口を動かした。
「……瞬?」
気づくと、伸幸がそんな瞬をのぞき込んでいた。
「伸幸さん、……味がする」
「瞬?」
「どれもうまいや。伸幸さんの言ってた通りだ。俺、料理、うまかったんだねえ」
照れくさくなって、瞬は少し笑った。
うまいのは当たり前だった。これが仕事だったのだ。
十八の歳から、ずっと調理場で働いてきた。
前の仕事を辞めた四ヶ月前まで。
「……瞬、これも少し、食べてみる?」
伸幸は白米をほんの少し、小皿に盛ってきた。
「ええ? いいよー」
「いいから。イヤだったら出してもいいから。ちょっとだけ」
瞬は鼻先に突きだされた小皿を、恐る恐る受けとった。
注意深く、そのニオイをかいでみた。
そんなにイヤな気はしない。
瞬は箸の先で、白く光る米粒をほんの少しつまんで、口へ入れた。
知っている、甘みだった。
瞬がそれをこくりと飲みこむのを、伸幸はじっと見守っていた。
伸幸が心配そうに見守ってくれてるのが何だか嬉しい。
瞬はちょっと笑って、もうひと口、今度は普通のひと口分を食べてみた。
(大丈夫……大丈夫だ)
もぐもぐと咀嚼して、瞬はそれを飲みこんだ。
「伸幸さん……」
伸幸は箸を置き、大きな手で瞬の頭を撫でた。
「食べられたな。うまかったか?」
瞬は何度もうなずいた。
「うん……うん。うまいよ。俺、食えたよ、米のメシ。四ヶ月ぶりにのどを通った」
小さなテーブルをはさみ、ふたりの身体は抱きあいそうに近づいていた。
瞬はまた少し照れくさくなって、身体を離した。
「伸幸さんの、おかげ、だな」
向かいでは、伸幸がにこにこと笑って瞬を見ていた。
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