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結局、何の打開策も見つからないまま半月が過ぎる。
その夜は王太子ギルベルトが主催する舞踏会で、私とクラウスは揃って義兄の宮殿へと向かった。
ここエデルガルドでは、王子たちにはそれぞれ宮殿が与えられる。その点も、王族は同じ宮殿でともに暮らすカスパリアとは違う。私が暮らすのはクラウスの、通称冬の宮。クラウスが冬生まれであることと、その美しい銀髪が冬の雪を思わせることからその名がつけられた、らしい。
対するギルベルトの宮殿は通称、夏の宮。確かに、よく実った畑の麦を思わせる彼の見事な金髪は、夏の呼称にぴったりだろう。
その王太子が住まう夏の宮には、この夜、広間どころかエントランスや前庭にも客が溢れ、彼に対する絶大な人望を無言のうちに誇示していた。……事実、後のカスパリア戦役では、多くの貴族諸侯が彼のために惜しげもなく兵を出し、また彼ら自身も武勲を競うかのように戦った。
戦後、ギルベルトは名実ともに英雄となり、その名声は、冬の宮殿に閉じこもる私の耳にすら届いたものだ。
あの地獄のような日々を思い出すたび、今でも胸の奥がぎちりと軋む。
屋敷付の侍従の案内で大広間に通される。すでに中は、着飾った紳士淑女の博覧会と化していた。
流行のデザインや素材を取り入れたドレスを、ここぞとばかりに見せつける女たち。その姿は、パートナーの権勢と財力を示すカタログでもある。力と勢いのある家の女は、相応に煌びやかな衣装を纏い、他の家を圧倒する。一方、すでに斜陽にさしかかった家の女は時代遅れのドレスやアクセサリーでどうにか体裁を整えつつ、フロアの真ん中で威張り散らす新興の家を下品だのと嘲笑うのだ。
もっとも、私は腐っても王子の妃だから、そうした鍔迫り合いからはまだ距離を置いていられる。
むしろ、私のような立場の女は逆に着飾り過ぎない方がいい。ただでさえ、王族という一段上に立つ人間は、目立つことよりもむしろ、余計な敵を作らないことを念頭に置かなくてはいけないのだ。
とはいえ、あまり女として気を抜くと、パートナーであるクラウスに恥をかかせることになる。クラウスが社交界での立場を失えば、その影響は当然、妻である私にも跳ね返ってくるだろう。それもそれで、正直、かなりやりにくい。……というわけで、選びに選んだ今夜のドレスは、やや時代遅れの、それでいて手入れの行き届いたクラシックなエデルガルド産のドレス。本当ならここに、カスパリア産の華やかなレースも取り入れたかったのだけど、今回はあえてドレスもアクセサリーもエデルガルド産のアイテムで固めている。
カスパリアのレースや宝飾品は、私が言うのも何だが近隣諸国の女性たちの憧れの的でもある。そのカスパリアから来た女が、これ見よがしに自国産のドレスやジュエリーで身を飾るのは、この国の女たちにしてみれば宣戦布告も同義だろう。事実……前回の私はそれで失敗した。自国の商品をアピールするつもりで身に着けて回った結果、手に入れたのは顧客ではなく、冷たい目をした敵だった。
「これはミラ妃殿下。……あら、カスパリアのドレスはお召しになっていらっしゃらないのね」
さっそく一人の貴婦人が、私のドレスに食いついてくる。彼女は、たしか辺境に領土を持つランゲ家の奥方だったはず。
このドレスは仕立てこそ丁寧だが、デザインそのものは地味で工夫がない。緑色のビロード地には飾り縫いの一つもなく、銀糸の編み込みすらない。私が単なる貴族の娘なら、こんなドレスは気にも留められなかっただろう。
「ええ……元はクラウス殿下のお母さまのドレスだったものを、この舞踏会のために仕立て直しさせて頂きました」
「ああ、そういえば見覚えがございますわ。ですが……ふふっ、身に着ける人間次第でこうも印象が変わるものですのね」
「……ええ」
女の悪意を素知らぬふりで受け流し、やんわりと私は微笑む。おそらく彼女は、内心、私とクラウスの母親を比べているのだろう。確かに私は、絶世の美女と呼ばれるほどの顔立ちではない。そんな女が、美しかった義母と張り合うように彼女のドレスを纏うのは、彼女にしてみれば滑稽で仕方ないのだろう。
まぁ、そうした印象も織り込み済みで、あえてこのドレスを選んでいるのだけど。
クラウスの母親は、おそらく典型的なエデルガルド美人だったのだろう。細面の顔に高い鼻梁、鋭い眉目、くっきりとした目鼻立ち――そんな彼女に、無理にでも張り合おうとする異国の王妃は、愚かではあっても敵にはならない。今後はあなた方の美のコードに従います。だからどうか、エデルガルドの女として受け入れてください。
男には男の、女には女の外交儀礼。
少なくともこの社交界では、そうしたコードへの恭順は不可欠だ。
「恥ずかしながら、こちらの作法はまだまだ勉強の途中です。わからないことも多く、不調法なところも見せてしまうかもしれません。どうか暖かく見守ってもらえると助かります」
そんなやりとりを、その後も二度三度と繰り返し、さすがにうんざりし始める頃、ようやく今夜のホストにお目通りが叶う。彼は、大広間の最奥にいた。傍らには妃と、彼女が先だって産んだ世継ぎの子。そもそも今回のパーティーは、あの子の誕生を祝うために開かれたものだ。
野次馬気分で取り囲む客たちを、無垢な瞳が珍しそうに見回している。
そんな妻と子を、まるで忠実な騎士のように見守る男。艶やかに波打つ金髪。血色の真っ赤な瞳。クラウスのような冷たい美貌とはまた違う、獰猛で、それでいて思慮深さも感じさせる精悍な容貌。
王太子ギルベルト。
私の国を亡ぼした男。
「……今宵は、お招き頂きありがとうございます」
不意に喉元から溢れた恨みを辛うじて押し殺し、恭しく腰を折る。……そうだ、この男はまだ、私の祖国に何もしていない。まだ起きてもいない出来事を根拠に恨みをぶつけるのは筋違いだ。だから、そう、落ち着かなくては。
「ああ……ミラ妃か。どうだ、新しい生活は」
「はい。皆さまの温かなお気遣いにより、快適に過ごさせて頂いております」
「それは重畳。我が国としても、そなたの国とは今後も良好な関係を続けたい。両国の橋渡しとして存分に励んでほしい」
「お心遣い、痛み入ります」
何が、良好な関係だ――そう、喉元までこみあげる叫びをどうにか堪え、一揖。我ながらよく我慢した。今だけは、自分を褒めてもいい。
「ところでクラウス。お前も今後は、もう少し社交に力を入れるのだな。彼女の覚悟が実を結ぶか否かは、お前の働きにもかかっているのだ。そのことを、夫であるお前も重々自覚しろ」
すると、それまで私の隣で柱のように突っ立っていたクラウスは、眉根一つ動かすことなく「はい」と頷く。多分、伝わっていないだろう。事実この後も、彼が両国の橋渡しとして動くことは一度もなかった。
それにしても、かつてギルベルトとこんなやりとりを交わしたことを、恥ずかしながらすっかり忘れていた。後に総司令官としてカスパリアを亡ぼす彼も、この頃はまだ、両国の良好な関係を望んでいたのだ。少なくとも……私を気遣う言葉に嘘や詭弁の匂いは感じられなかった。
止められるのだ。今なら、まだ……
「ところでクラウス、今夜は珍しくロルフも顔を出しているぞ。気は進まんだろうが、後で挨拶するといい」
するとクラウスは、今度はあからさまに顔を曇らせる。
「わかりました。兄様のご命令なら……」
その後、私とクラウスは揃ってギルベルトの御前を後にする。フロアには、なおも楽士たちの音楽が鳴り響き、紳士も淑女も手に手を取りながら踊りあかしている。
「殿下、ダンスはいかがなさいます?」
たった今、私の夫としての役目を兄に諭されたばかりだ。さすがに応じてくれるだろう――と思いきや。
「いや……私は結構」
言い残すと、ふいとそっぽを向き、いつもの学者仲間の輪に向かってゆく。そんな夫を、私は冷ややかに見送る。そうよね、愛してもいない女とのダンスは苦痛なだけですもの――だからって、初めての夫婦揃っての舞踏会でそれは。
「ほう、クラウスの嫁か」
振り返る。と、いつしか目の前に見覚えのある男が立っている。漆黒の髪と、ここだけは彼の兄と同じ真っ赤な瞳――後に、カスパリア滅亡のきっかけとなった第二王子、ロルフだ。
「お……お初にお目にかかります、ロルフ殿下」
スカートを軽く摘まみ上げ、一揖。するとロルフは、驚いたように赤い瞳を軽く見開く。
「へぇ、こりゃまた随分と綺麗なエデルガルド語だ。余程訓練したと見えるな、ご苦労なことで」
「……お褒めの言葉、感謝いたします」
恭しく頭を下げながら、やはりこの義兄は苦手だ、と思う。言葉や態度の端々に覗く私への軽蔑。私にしてみれば懐かしい相手だが、改めて言葉を交わしても、正直、何の感慨も湧かない。
「ところで」
「は、はい……」
ぐいと顔を寄せられ、同じだけ身を引く。無造作な距離の詰め方が、無礼という以前に、ただ怖い。
赤い瞳が、す、と窄められる。まるで……獲物を狙う蛇だ。
「聞いたぞ。クラウスとはうまくいっていないそうだな。奥手な弟のことだ、どうせ夜の方も役立たずなんだろう。……お前さえよければ、俺が胤を授けてやる。どうだ」
「……は?」
何を……言っているんだ。この男は。
言葉そのものというより、その言葉を向けられた意図がわからない。いや、理解は、できる。ただ、理解したくない。そんな相反する感情に困惑する私の手を、ロルフは無理やり掴み、力任せに引きずりはじめる。
「えっ? あ、あの……ま、待ってください」
が、ロルフは聞く耳を持たない。そのまま大股で広間を横切ると、同じ足取りでさらに宮殿の奥へと突き進んでゆく。私はといえば、彼の長い足が生み出す無遠慮な速度に転ばないよう足を動かすのに精いっぱいで、抗おうにも床を踏みしめる余裕すらない。
やがて私が連れ込まれたのは、宮殿奥にある小さな寝室だった。おそらくは侍従用の部屋だろう。ただ、その部屋の主は今は給仕のために出払っているらしい。その、私たち王族が普段使うそれに比べれば粗末なベッドに、ロルフは私を押し倒す。
「えらく大人しいな。お前もこれが欲しかったか?」
そう言いながらロルフは、早くも腰のベルトを解きはじめている。これ以上は見るのもおぞましく、私は慌てて目を逸らす。
「お……恐ろしいことに、なりますよ」
「恐ろしいこと?」
「カスパリアが、黙っていません。このことは、っ、お父上にも、報告、します」
恐怖と緊張で乱れる息。こんな状態でいくら脅迫しても、この男には何の脅しにもならないだろう。
案の定ロルフは、愉快とばかりにげらげらと笑う。
「おう、すりゃいい! そんでカッとなったカスパリアが攻めてくりゃ、むしろ願ったりだ!」
「……は?」
これはさすがに予想外の言葉だった。何を……こいつは言っている。
「大体な、邪魔なんだよあの国は。うちは内陸国だが、それでもアデルネ海を通じた交易は生命線だ。なのにお前らの国ときたら、いっつもいつも高い関税を吹っかけてきやがる。小せぇ船はともかく、デカい船はこの辺りじゃお前らの港にしか入らねぇからな」
「で……でも、その代わり、エデルガルド人には、格安で港を使わせて、」
「それは平時の話だ。戦時になると、お前らは港どころか街道まで封鎖しちまう。そのたびに俺たちは、お前らに譲歩してでもさっさと講和を結ぶ必要に迫られる……その屈辱が、お前らカスパリア人にわかるか!? あぁ!?」
完全に言いがかりだ。カスパリアの港を使いたくなければ、別の沿岸諸国とやりとりをすればいい。そもそもカスパリアも、余程大規模な戦争でも起きないかぎり街道の封鎖には踏み切らない。エデルガルド商人から入る関税や港の使用料は、わが国にとっても貴重な財源なのだ。
とはいえ、ようやく理解できた。後にこの男が、些細な国境紛争に無理やり首を突っ込んだのは、この鬱積した怒りのせいもあったのだろう。
「というわけだ。ミラ、お前には戦争の口火になってもらう。……ははっ、あいつがカスパリアから嫁を取ると聞いた時は驚いたが、貰ってみると存外便利なもんだな。好き放題に弄り回して導火線にできる」
「……っ」
悔しい。が、実際便利に使われているのだから仕方ない。それに案外、クラウスもそんな理由で縁談に応じたのではないか。さもなければ、あの冷淡さの説明がつかない。とりあえず宮殿で私を飼い殺しながら、こうして誰かに弄ばれるのを待っていたのかも。
やがてロルフは、私のスカートを無造作に捲る。
「いや!」
慌てて膝を閉じる。一応、下にはキュロットとパニエを重ね履きしているが、それでも〝中〟を暴かれる羞恥は変わらない。
そんな私の反応を、ロルフは心底楽しげに見下ろす。
なんて……嫌な顔。
「ここだけの話だがな……好みなんだよなぁ、カスパリアの女は。よく日に焼けた肌だとか、こう、太陽の匂いがしてよ。何より、エデルガルド産のと違ってむっちりしているのがいい。まぁお前の場合、もう少し太った方が俺好みだけどなぁ」
そしてロルフは、私の喉元をぞろりと撫でる。いつでもこの喉首をひねり潰せるとでも言いたいのか。……ただ、その冷たさがようやく私に気付かせる。獣の欲を装ってはいるが、その目はなお人間のそれだ。暗くて、冷たい。
「ほ……本当の目的は、カスパリアではなく、エデルガルドの王位なのでは」
「は?」
虚を突かれた顔を晒すロルフに、なおも私は重ねて問う。
「そのためには目に見える成果が要る。だからカスパリアが欲しい。違いますか」
根拠は、ない。だが的外れでもいい。〝ここ〟で重要なのは、とにかく反応を探ること。運よく当たれば、いや当たらなくとも、とにかく次には繋がる。
やがて。
「ははっ」
目の前に迫る男の顔が、にっ、とほころぶ。
ここまで私を襲いながら、一度も獣の色を宿すことのなかったその目が、今は、獰猛な狼のようにぎらついていた。
「あのバカの嫁にしとくにゃ惜しい女だな」
要するに、ご名答、というわけか。
ならば、もう〝ここ〟には用がない。そうでなくとも、こんな男に弄ばれた記憶など死んでも持ち帰ってやるものか。
「なぁミラ、やっぱお前、俺の側室に――」
「ドルガルデ、エアリパスカ、ラミ」
「は?」
ロルフがぽかんと間抜け面を晒すのと、目の前の景色が白く飛ぶのはほぼ同時だった。
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